天海 (189)

 

 

 

【関ケ原夢の跡】

 

 

 東軍諸将伊吹山方面に向かって敗走した宇喜多勢や石田勢の追撃に夢中になっていたようで、東に向かって突き進む島津隊に追いすがったのは、井伊・、松平・筒井隊ぐらいであった。

 追撃した井伊直政は島津の家臣・柏木源藤の鉄砲に撃たれ、落馬した。弾丸は右脇腹に命中したが、鎧によって跳弾し、右腕を負傷したという。(「井伊慶長記」)

 

 一旦は東に向かった島津隊であったが、正面に家康本陣が見えたので、慌てて南下したのである。やがて徳川軍に追いつかれそうになると、島津家老の長寿院盛淳が、「我こそは島津兵庫頭である。」と名乗って、その場に踏みとどまり、家臣らと共に討ち死にする。(「帖佐彦左衛門宗辰覚書」)これは「捨て奸」と呼ばれる島津の退却戦法であった。

 

 島津隊の殿を務めたのは、副将格の豊久であった。島津隊が烏頭坂付近まで来ると、豊久はそこで踏みとどまり、追撃隊に切りかかっていったのである。豊久は最後まで奮戦したが、重傷を負い自刃したという。

 こうして、義弘南宮山あたりまで退却すると、既に大垣城にも火の手が上がっているのが見えた。すると幸運にも、ここで南宮山を離脱する長曾我部・長束隊と遭遇するのである。長束正家は満身創痍の島津隊をみて、わざわざ道案内をつけてくれたという。(「惟新公関原御合戦記」)

 

 「えーい、もうこうなれば、伊勢街道を抜けて、薩摩に戻るぞ。」と、もはや破れかぶれの義弘は考えた。義弘は正家の厚情に感謝するとともに、僅かになった供回りと共に伊勢路を落ち延びていったのである。

 

 「さて又其側面たる南宮山の西軍の中、長束安国寺の両隊は、毛利軍と共に出戦しやうとしたが、前にも申す毛利は既に東軍方、さりとて、西軍を撃つともしないで、所謂これも勝った方づき、御多分に洩れないといふ方だったから、中々容易に動かない。其中に斥候を発して戦況視察にやると其斥候が途中で島津の兵に逢ひ西軍全然敗北々々と聞いて直ちに走せ帰って、その旨を云ったから毛利はチャンと見越して東軍に通じてあるから、まづまづそれで仕合せよしであるが、正家たちは直ちに伊勢に走った。」(「関ケ原」)

 

 関ケ原の敗報を知った長曾我部盛親は、長束隊と共に伊勢路を落ちていった。盛親は途中、池田・浅野隊の追撃を受けたので伊賀から和泉に逃れ、大坂から土佐に渡ったという。

 一方、長束正家は居城である水口城に戻り籠城したが、亀井玆矩・池田長吉に欺かれて捕縛された。

 吉川広家は内通していた黒田長政・福島正則らに促され、毛利秀元と共に近江に向かったのである。秀元は広家の内通を知らなかったというが、果たして本当であろうか。

 

 「長曾我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊等、美濃南宮山ニ陣ス、関ケ原ノ敗戦ヲ聞キ、敗走ス、恵瓊、毛利秀元ノ軍ニ属シ、密ニ京都ニ入ル。」(「史料綜覧」)

 

 恵瓊秀元の軍に隠れ、京都まで逃れた。しかし、家康との交渉に差し支えると考えた広家に諭され、毛利軍から逃亡する。鞍馬寺、本願寺と身を寄せたが、最後は奥平隊に捕縛されたのである。

 

 

島津義弘像

西田実 著『チェスト関ケ原 : 島津義弘と薩摩精神』,

春苑堂書店,1972.

国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/9769349 (参照 2024-05-23)