天海 (186)

 

 

 

 家康桃配山中腹に布陣した。周囲は雲海に包まれ、山々の頂が見えるばかりである。

 霧雨の中、天海は頭巾をかぶり具足をつけ、家康の陣幕にいた。僧侶でありながらも、戦場となればどうしても血が騒ぐ。それでも、天海は余所者であるから、なるべく出しゃばらないよう気を遣うのである。

 ところが家康はお構いなしであった。話し相手に丁度良いのであろう。周囲も高齢な天海に敬意を払ってくれたようだ。

 家康本軍は、派手さはないが、実務的で堅実な布陣であった。また、これから徳川家を支えるであろう、多くの若手武将もいた。

 

 「ちと、先方と離れすぎているか。」と家康は周囲に尋ねた。

 「はっ、この天候なれば、濃霧の中、奇襲を受けぬよう、むしろこれぐらいの高台がよろしいかと存じます。」と生真面目そうに本多正純が答える。父、正信と違い、外連味がない好青年である。

 家康はフムフム、と頷くと、「天海、この地の謂れを皆に話してやれ。」という。

 「この場所は壬申の乱の折、大海人皇子が陣を布いた、大変縁起の良いお山でございます。」と天海がいうと、一同は、「ほうー。」と感嘆したのである。

 すると、副将格の奥平信昌が進み出て、「もうすぐ霧が晴れます。合戦が始まりましたら、一気に関ケ原に押し出しましょう。」と提言した。

 「うむ。」と頷くと、家康は松尾山の方角を睨みつけた。「あとは、金吾次第よ。」と呟いたのである。

 

 家康が率いる本軍3万人は、次のような陣容である。先陣に村越充光、小栗忠政、米津康勝ら、旗奉行に酒井重勝ら、槍奉行に大久保忠教ら、弓・銃隊将に松平康安、渡辺守綱、伊奈昭綱ら、使番に横田尹松、服部正重、西尾利光などである。小荷駄奉行には伊奈忠次、大久保長安が名を連ねていた。

 

 「天海、南宮山をどう見る。」と家康が尋ねると、

 「徳川が優勢なら様子見で、三成方が優勢ならば山を下りるでしょう。」と天海は言う。

 「吉川と恵瓊か、どっちつかずとは、輝元らしい卑屈な策だな。」と家康は侮蔑を込めていった。

 「どっちつかずの人間をお味方にするのが、大将の器、勝利の極意でございましょう。」と天海は言うのだ。

 「分かっておる。」と家康は頷いた。内心腹が立っても、今は持ち上げて、煽てておく他ないのだ。

 「輝政は南宮山を支え切れるかのう。」と家康が尋ねると、

 「しばらくなら、お支えくださるでしょうが、長くは持ちますまい。その前に三成らを討つほうが大切でございましょう。大丈夫でございます。きっと金吾中納言様は期待に応えて下さるでしょう。」と天海は言うのである。

 

 巳の刻(午前10時)に到り、ようやく霧が晴れ始めた。雲海は流れ去り、青い空が垣間見えるようになったのである。諸軍は鉄砲の雨覆いを外すと火縄に火をつけた。静寂の中、人々の緊張は高まっていく。開戦が間近に迫っていた。

 

家康の陣幕にいる天海(南光坊)