天海 (185)

 

 

 

 「敵は今日に至り、赤坂何之行もこれなく、延々と居陣、ものを待つ様にしかとこれある軆に候。不審なりと各申候事。」(「増田長盛宛石田三成書状」9月12日)

 

 どうやら三成たちは家康の西上を知らなかったようである。赤坂在陣の諸将が一向に攻めようとせず、何かを待っているかのようで不審である、と書いている。家康が3万の兵を引き連れて、赤坂に現れた時の驚きは、如何ほどであったことだろう。

 家康は大垣城を捨て置き、このまま上洛するのではないかという疑念が西軍にはあった。西軍が追撃したとしても、小早川軍に山中を抑えられては、家康の進撃を阻止できないのである。実は、家康がこの噂を流していたという。

 

 軍議において、宇喜多秀家は「これは罠であるから、大垣城に籠城すべきである。」と主張した。これに対して三成は、「籠城は士気が下がるうえ、抑えの兵を置いて、西進されては、これを阻止できない。」と主張した。

 結局、「関ケ原の台地に陣を布き、家康の西進を阻止し、南宮山の毛利隊に挟撃させれば勝利できる。」と決したのである。

 

 9月14日午後7時ころ、西軍は大垣城を出ると、第一軍として石田軍、第二軍として島津軍、第三軍に小西軍、第四軍として宇喜多軍が、秋雨の中を関ケ原に移動した。夜襲を受けぬように松明も掲げず、遥か南宮山の長曾我部軍の篝火を頼りに、伊勢街道を回り込むように関ケ原を目指したのである。

 

 家康は杭瀬川の奇襲から、周囲の警戒を怠らず、方々に篝火を焚き、斥候を出していたのである。すると曽根砦にいた西尾光教から「大部隊が大垣城から出撃した。」との注進があった。

 すでに寝床に就いていた家康であったが、すぐに寝所から飛び出した。大急ぎで湯漬けを食らうと、鎧を身に着けて陣所に馳せたのである。

 

 15日午前3時、家康は全軍を二つの縦隊に分けて出陣した。当たり前だが、大軍が移動するときはどうしても縦隊になる。大名行列をイメージすると分かり易いであろう。

 左軍福島隊を先頭に藤堂隊、京極隊、寺沢隊が続き、右軍は、黒田隊を先頭に竹中隊、加藤隊、細川隊、筒井隊、田中隊が続いたのである。

 中堅には松平忠吉、井伊直政、これに軍監として本多忠勝が参加していた。さらに金森隊、生駒隊、織田有楽斎隊が続いたのである。

 この後に本軍として家康の3万人が続き、山内、有馬、浅野、蜂須賀隊が後備えとして、最後尾にあった。一方、池田輝政には南宮山の備えとし、堀尾、中村隊と共に後方に布陣させたのである

 

 東軍が関ケ原についたのは、ようやく夜が明けようとした頃であった。夜半から降り始めた雨は未だに止まず、あたりは霧雨のように兵士に纏わりついた。ずぶ濡れの兵士は疲れと寒さで震えが止まらず、自分を待ち受ける運命に不安を募らせた。やがて霧雨は濃霧となり、朝日に照らされると、周囲は白々と輝き、諸隊の視界を遮ったのである。

 

 すでに西軍はほぼ布陣を終えていた。ただ最後尾の宇喜多隊だけは、まだ移動していたのである。このため、西軍の宇喜多隊と東軍の左軍・先方の福島隊は知らぬ間に接近していたのであった。