天海 (184)

 

 

 

 下図は有名な関ケ原の布陣図である。これを見ると東軍が魚鱗の陣(縦隊)、西軍が鶴翼の陣(横隊)であることが良く分かる。戦形を見ると高台に陣を布いた西軍が有利というのも理解できるのだ。

 しかし、実際の戦闘では、右翼の小早川隊は、既に東軍に内応していることが露見していて、三成らは、敵であると認識していた。そうすると戦いの経緯は自ずと異なるものになる。

 

 さて、大垣城にいた西軍は約3万人、南宮山に2万5千人といわれている。これに対して赤坂に布陣している東軍は7万8千人である。大谷吉継は西方の山中に布陣していた。大谷隊(3千500人)の役割が近江方面への退路の確保であることは明白である。

 

 「慶長五年九月十四日、駿府府中ノ中村一栄、石田三成ノ老臣島勝猛ニ謀ラレ、美濃株瀬川ニ戦ヒ敗北ス、徳川家康、井伊直政・本多忠勝ヲシテ兵ヲ収メシム。」(「史料綜覧」)

 

 家康の到着で西軍兵士の間に動揺が走ったという。この動揺を一掃するため、三成は島左近らを派遣して、杭瀬川の中村一栄隊に奇襲を掛けたのである。反撃に出た中村隊は宇喜多隊の待ち伏せを受けた。この後、救援のため有馬隊も参戦したのであった。ただ島の部隊は500人で小競り合いの域を出ない。家康は直政、忠勝を派遣して、諸隊に深追いをさせなかったのであった。

 

 「石田三成、東軍ノ、美濃大垣城ニ備ヘ、京都ニ入ラントスルヲ聞キ、福島是堯・垣見一直・相良頼房・秋月種長ヲ同城ニ留メ、小西行長・宇喜多秀家等ト出テ関ケ原ニ陣ス、島津維新(義弘)、徳川家康ノ本営岡山ヲ夜襲セント請フ、三成肯ゼズ。」(「史料綜覧」)

 

 義弘の奇襲策は現在ほぼ否定されている。まず出典は「黒田家譜」(1688年)と「落穂集」(1727年)といわれていて、7万8千人の徳川軍に島津隊(1700人)が夜襲を掛けても、その影響力はほぼない。

 三成が大垣城を出たのは、すでに東軍に寝返った秀秋が松尾山に布陣したからである。松尾山の眼下には大谷隊がいる。つまり三成ら西軍は秀秋に退路を断たれる可能性があったのだ。

 しかも、南宮山の毛利隊も去就がはっきりしなかったのだ。三成は恐らく吉川広家も信用していなかったのであろう。

 大谷隊のうち、脇坂、朽木、小川、赤座の4隊(4千人余)が秀秋に備え、松尾山の麓に布陣したという。しかし、脇坂は明白に内応者(高虎の調略)である。この4隊が秀秋と同調したのも、偶然とは思われないのである。むしろ小早川隊と大谷隊の間に緊張関係があり、この4隊は小早川隊についたと考えるほうが自然である。

 

 いずれにせよ、大谷隊が危機的状況であることは明白であった。大谷隊が壊滅しては大垣城の西軍は孤立する。已むに已まれず、三成らは夜間に大谷隊がいる山中に移動したのであろう。

 

 

藤井治左衞門 著『関ヶ原の役』,關ヶ原公民館,1950.10.

国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/2529931 (参照 2024-05-19)