天海 (183)

 

 

 

 高次自身も槍傷を受け、城内にも厭戦気分が漂っていた。それでも高次は徹底抗戦をやめなかったのである。総大将の毛利元康は高野山の高僧・木食応其上人を派遣し、降伏を勧めたが、高次は応じない。しかし、どうしても高次を救いたい立花宗茂が矢文を放った。高次は宗茂の厚情に触れ、ようやく心を開いたのであった。

 9月14日、高次は北政所使者・孝蔵主を招き入れ、ついに降伏した。振り返ると、美しかった大津城は見る影もなかった。多くの家臣が死んだのだ。高次は園城寺に入ると剃髪し、高野山へ向かったのである。

 「オレはまたしても、女たちに救われた。これでは命を懸けて戦ってくれた家臣に合わせる顔がない。」と嘆いた。侍を捨て生涯をかけ、自分のために死んでいった者たちの菩提を弔おうと決意したのである。

 

 宗茂大津城に入ると、城内は無残な有様であった。

 「このような状態で戦っていたのか。」と驚く他かなかった。それでも誰も高次の死を望まなかったのである。

 本人は気づいていないが、誰からも愛されることこそが、高次の才能である。武士としての実力も如何なく発揮した。本人は無念であったろうが、もはや誰も「蛍大名」などと揶揄する者はいないであろう。

 

 幽斎と高次によって、西軍は3万人の兵力を奪われた。もし西国無双と呼ばれた宗茂が関ケ原に間に合っていたら、結果がどうなっていたか分からないのだ。その意味で二人の功績は大きいのである。

 

 「慶長五年九月十四日、宇喜多秀家、石田三成等、小早川秀秋ノ叛状アルヲ察シ、秀秋ヲ質セントシ、美濃大垣ニ、招ク、秀秋、応ゼズ。」(「史料綜覧」)

 

 関ケ原の戦いはいわば戦国時代のクライマックスであるから、多くの軍記ものに取り上げられ、数多くの創作を生んだ。このため後年、何が真実なのか分からなくなったところがある。

 例えば有名な逸話として、家康の「問鉄砲」がある。決戦当日になっても動かない秀秋に対して、痺れを切らした家康が、秀秋が布陣する松尾山に鉄砲を撃たせたという話である。しかし当時の鉄砲の威力では松尾山の陣に弾は届かないし、音も聞き取れないのだ。それに秀秋の叛意は明らかで、すでに東西諸将の間では公然の事実となっていたのである。秀秋に迷いなどなかったのだ。

 

 9月13日、家康本隊井伊・本多隊、4万3千人岐阜城に入った。さらに14日早朝に、岐阜城を出立すると福島らが待つ赤坂の陣に合流したのである。これで軍は7万8千人となった。

 

 「九月十四日、その老臣平岡頼勝・稲葉正成を率い、大垣城の西北松尾山(九百九十尺)に上り陣せり。吉継なほ秀秋を疑ひしかば、その夜、単身松尾山の陣に到り、(中略)されど秀秋は、この時、既に款を東軍に通じ、黒田長政によりて家康に応じ、頼勝は質をさへ納れて、家康と結託、十分に成れり。」(「稿本石田三成」)

 

 直政忠勝は小早川秀秋の家臣・平岡頼勝・稲葉正成に起請文を送った。そこには、「①内府は秀秋をぞんざいに扱うことはない。②両人についてもぞんざいに扱うことはない。③上方に二か国を与える。」とのことが書かれていた。

 

 9月14日、小早川隊1万5千人は高宮から北上すると、松尾山城に入っていた伊藤盛正を追い出し、松尾山に陣を布いたのである。

 

平岡頼勝