天海 (182)

 

 

 

 「慶長五年九月十二日、是ヨリ先、近江・伊勢ノ西軍、美濃ニ入ルニ依リ、石田三成、東軍ト戦ワントス、長束正家・安国寺恵瓊、従ハズ、三成、諸将ノ反覆測リ難キヲ憂へ、、是日、大坂ニ在る増田長盛ニ軍状ヲ報ジ、叛将ノ質ヲ誅センコトヲ求ム、其使者、東軍ニ捕ヘラル。」(「史料綜覧」)

 

 三成伊勢方面軍が到着したことにより、家康到着前に赤坂の福島・池田軍を攻撃しようとした。ところが、正家、恵瓊の反対により実行できなかったのである。三成はこのころ疑心暗鬼に陥っていたようで、大坂の奉行・増田長盛叛意のあるものは誅すべきだ、と主張している。

 9月11日、家康のもとに秀忠遅延が伝えられた。直ちに評定が開かれ、直政は秀忠軍の到着を待たず決戦すべきだと主張した。すでに美濃の諸将は一か月近く在陣しており、これ以上の遅延は士気の低下を招くといったのである。

 一方、忠勝は慎重で、西軍の兵数が多い状況での決戦は控え、秀忠軍の到着を待つべきである、と主張したのである。

 

 「天皇敕して曰幽斎玄旨は文武の達人にして殊に大内に絶えたる古今集の秘奥を伝え帝王の師範にして神道歌道の国師なり今玄旨を隕さは世に之を伝える者なし速に囲いを解くへしと更に命を包囲軍に伝へしめ烏丸廣光を田邊に下し給ふ公乃。」(「細川幽斎公略歴」)

 

 ついに天皇の勅命が下り、幽斎は9月13日、田辺城を開城し、丹波国亀山城に移った。だから、この戦いは局地的には西軍の勝利と言えるのだろう。しかし、僅か500人の兵で1万5千人の西軍を、ほぼ2か月釘付けにした功績は大きい。結局この軍は関ケ原には到着できなかったのである。

 

 「是ヨリ先、西軍、京極高次ヲ近江大津城ニ囲ム、豊臣秀吉ノ後室杉原氏(高台院)・豊臣秀頼ノ生母浅井氏(淀殿)紀伊金剛峯寺応其(興山)等ノ勧メニ依リ、是日、高次、城ヲ致シテ、山城宇治ニ退ク、尋デ、関ケ原ノ戦捷ヲ聞キ、薙髪シテ、高野山ニ入ル。」(「史料綜覧」)

 

 大津城坂本城の後継の水城であり、その縄張りも本丸が湖に突き出ていて、よく似た形であった。高次は徳川が勝つと確信して、この城で籠城戦に打ってでたのである。万が一、徳川方が敗れた時には、城を枕に討ち死にする覚悟であった。

 「もう蛍大名などとは言わせない。京極家の誇りをかけて戦うのだ。」

 普段は温厚な主君が、この度ばかりは本気であることを家臣は気づいていた。

 

 大津は東海道、東山道、北陸道の交通の要であり、大消費地である京都の物流を支える琵琶湖の水運も担っていたのだ。大坂方も、ここを押さえられては、首を絞められたようなもので、何をするにも支障があった。まさに戦略的要地なのである。

 西軍は9月7日から毛利元康を総大将立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら錚々たる武将が1万5千人の兵力で猛攻を加えたのである。その銃撃の激しさは濛々と上がる硝煙で城が見えなくなるほどであった。

 京極方は500人で夜襲を仕掛けたが、宗茂はそれを予見し、撃退した。さらに城の近くに塹壕を掘り進め、射撃を強めたのである。

 攻撃の手を緩めない宗茂は、さらに大筒を城内に撃ち込んだ。砲弾は本丸にも命中し、寿芳院(京極竜子)が気を失い、侍女二名が死んだという。

 9月13日、宗茂隊は三ノ丸に侵入し、さらに二ノ丸まで突破した。ついに高次絶体絶命の危機に落ちいったのである。

 

寿芳院(京極竜子)