天海 (181)

 

 

 9月10日、家康尾張に入ったと聞いて、利景光親と共に清州城を訪れた。(「小里家譜」)清州城には既に忠勝直政ら重臣も出迎えに来ていたのである。利景らは清洲に到着したばかりの家康と面談し、居並ぶ重臣の前で東美濃諸城の奪還を報告した。 

 「このように東美濃の大半を制し、我らは今、岩村城・神篦城を包囲しております。」というと、家康は満足そうに頷き、

 「岩村城は天下に隠れなき名城ゆえ、あまり無理をするな。東濃の諸将には旧本領を安堵するつもりなので、皆に励むように伝えよ。」といったのである。

 

 重責を果たし一安心した利景が、退席しようとすると、重臣の末席に見覚えのある顔を発見したのである。

 「あっ兄者?ここで何をしておられる。」と利景は思わず奇声を上げた。

 その声に居並ぶ重臣は、どっと笑った。

 「おお、勘右衛門ではないか、ご苦労であった。よくオレに気づいたな。」と頭巾をかぶった天海は澄ました顔で言うので、陣幕はまた笑い声に包まれた。

 「お前が、なかなか具足を作らんから、オレが見繕ったのだ。どうだ、よく似合うだろう。」と家康は満面の笑みで言う。

 「これは誠に申し訳ありません。」と利景は冷や汗をかいた。

 「天海にはしばらく陣幕にいてもらうゆえ、何かあったら相談に来い。」と家康は上機嫌で言ったのである。

 

 帰路、利景憤懣やるかたない表情で、「オレはいつも、ああして兄者に誑かされるのだ。」とぼやいた。

 光親は不思議そうに、「ところでその兄者とは誰でござるか。確か勘右衛門殿の兄上はもう誰もおられぬと思っておりましたが。」と尋ねた。

 利景は何というべきか、しばし躊躇したが、

 「兄者とは坂本城で死んだ明智左馬助弥平治よ。それがこの世に未練があって、天海として生き返ったのだ。」と苦々しげに言った。

 光親は唖然として、しばらく口が利けなかったのである。

 

 さて、ここで9月初頭の上方・東海方面の情勢を整理してみよう。

 まず、大垣城には西軍・石田三成と小西行長が1万5千人で籠城していた。その北方の赤坂に東軍・福島正則・池田輝政ら3万5千人が陣を布き待機している。

 北国攻めに出撃していた西軍・大谷吉継6千人が関ケ原に向かい南下していた。一方、大谷隊から離脱した京極高次は東軍となり、3千人で大津城に籠城している。これを西軍の毛利元康・小早川秀包・立花宗茂1万5千人が包囲したのである。

 伊勢に侵攻していた西軍の長束正家・毛利秀元・吉川広家ら約4万人が美濃に入ろうとしていた。

 丹後の田辺城はいまだに東軍の細川幽斎が500人で踏みとどまっていて、これを西軍の織田信包、小野木重勝ら1万5千人が包囲していた。

 東軍の家康は3万人で東海道を西上していて、秀忠が3万8千人で東山道を西に進んでいた。そして、東軍に内応している小早川秀秋は1万5千人で近江の石部から移動し、佐和山城に近い高宮に陣を布いていたのである。

 

 三成は秀秋の行動を怪しく思っていた。そこで、吉継近江に派遣して、秀秋を捕らえようと考えた。平塚為広・戸田重政を高宮の秀秋のもとに派遣したのである。秀秋はこれを警戒し、病と偽って面談を拒否したのである。

 

 この時、すでに秀秋の陣営には大久保猪之助(黒田家臣)奥平貞治(徳川家臣)が目付として入っていて、稲葉、平岡らと評定を繰り返していた。すでに内応は定まっていたのである。