天海 (180)

 

 

 

 

 「慶長五年九月一日、徳川家康、江戸城ノ留守ヲ定メ、西上シ、相模神奈川ニ泊ス。徳川家康、福島正則・藤堂高虎・黒田長政・田中吉政・一柳直盛ヲシテ、陣地ヲ固守セシム。是ヨリ先、美濃八幡ノ稲葉貞通、西軍ニ応ジ、石河貞清等ト尾張犬山城ヲ守リ、三子通孝ヲシテ、居城ヲ守ラシム、是日、遠藤慶隆、金森可重ト八幡城ヲ攻メ、尋デ、之ヲ降ス、同族遠藤胤直ノ上可根城ヲ囲ミ、之ヲ誘降ス。」(「史料綜覧」)

 

 家康は足の遅い小荷駄隊や徒組を置き去りにして、馬廻衆を連れて東海道を西上した。

 「ア奴らは1日や2日遅れてもいい。一日でも早く清州城に金扇馬印を立てねばならない。」と家康は考えていた。「疾きこと風の如く」の一文が家康の脳裏に浮かぶ。

 「信玄公の言う通りだ。動くと決めたら風の如くだ。江戸にいた家康が忽然と尾張に現れたら、みんな腰を抜かすであろう。」とほくそ笑んだのである。

 

 「遂ニ秀康ヲ召シテ留守ノ任ヲ命ズ。秀康曰ク大坂ノ事ハ重大ナリ、兒當

サニ前躯シテ死力ヲ効スベシ、留守ノ命ハ殊ニ期スル所ニアラズ、タトヒオボシメシニサカフトモ、兒請フ固ク之ヲ辞セント。家康曰ク兵法ニ言ハズヤ自国ヲ踰ヘテ遠征スルハ留任ヲ擇ブヲ以テ緊要トナスト、旦ツ今日ノ事ハ諸侯ニ任子ヲ江戸ニ置カントス、汝ニアラザレバ以テ衆心を繋グナシト。」(「徳川十五代記」)

 

 宇都宮で上杉の抑えを命じられた結城秀康は強く反発する。家康は説得するが、秀康はなかなか納得しなかったという。

 

 「よいか、秀康。三成の兵は数こそ多いが、所詮寄せ集めである。内情は、ばらばらなのだ。それに比べて上杉の兵は謙信公以来の強兵だ。戦えばどちらが強いと思う。景勝が本気で南下してくれば、これに対抗できるのはお前しかいないのだ。お前がいてくれるから、オレは西に向かえるのだ。」と家康は説得した。秀康は涙を呑んで留守居を引き受けたのである。

 

 家康秀忠が揃って西上すると知って、徳川諸将は動揺を隠せなかった。江戸は明らかに手薄で、景勝が大軍で江戸に攻め込むという噂が広がったのである。そこで秀康は景勝に対して果たし状を突き付けたという。

 

 「今般、上杉家が関東に乱入するとの噂がありますが、この秀康がお相手いたすので、宇都宮でお待ちしております。」

 すると、景勝本人から返書が来たという。

 「わが上杉家では、謙信公以来大将の留守中に城を奪うような卑劣なことを行ったことがありません。内府様が戻られてから、雌雄を決しようではありませんか。」

 

 秀康は景勝の堂々とした態度に感心したのである。これにより家臣たちの動揺は収まったという。関ケ原の戦いが終わると、秀康は積極的に上杉家との仲介に動き、景勝赦免に尽力したのであった。

 

 「大久保家留書」によると次期将軍に、本多正信らは「結城秀康」を推し、大久保忠隣は「徳川秀忠」を推したといわれる。恐らくこれは大久保家の創作であろう。ただ徳川家中で秀康の評価が高かったのは事実である。

 

家康馬印