天海 (179)
8月下旬に美濃に入った遠山利景は、明知城を囲った。利景の予想通り、明知城は手薄で、城兵はおそらく百人に満たなかったであろう。
「この城の事は誰よりも知っている。オレは大手門から攻めるから、方景は搦め手に回れ。」と指示した。
田丸方の守将は山川左之助と原土佐であった。9月2日、突然、大手門を攻められ狼狽しているうちに、搦め手から敵の侵入を受けた。堪らず山川らは逃亡したが、利景は厳しく追撃し、首級13を挙げたという。
明知城を奪還した利景は守備隊として経景と伝蔵らを置くと、直ちに小里城に救援に向かった。9月3日には遠山勢が加わり、光親は無事、小里城を奪還できたのである。
「小里明智両家家中の旧臣領民ここかしこより馳せ集り主従一団の勢とぞ成りにける。時に和田(小里)彦五郎、遠山久兵衛同民部等、家康の命の如く岩村へ出動せんとし、各準備すべきやう家中へ命ず。時に苗木家より明日寅の刻岩村へ参陣有べしと妻木へ報ず。久兵衛五百騎にて岩村のあきばさまに旗一旒翻へし陣を取る。和田彦五郎、遠山民部両将は三百余騎旗二旒びるがへし、岩村城の面に陣す、田丸勢は三百余騎にて籠城す。」(「妻木戦記」)
苗木城の遠山友政、明知城の遠山利景、小里城の小里光通は岩村城を包囲して、妻木城の妻木頼忠の参陣を呼び掛けた。
かつて、織田家・武田家で激しい争奪戦を繰り広げた岩村城は、極めて堅牢であった。利景は小牧長久手の戦いの折も、明知城を奪還した勢いで、岩村城を攻めたが、攻略に失敗している。
9月5日、友政と利景は岩村城攻撃にかかった。また、光親と妻木家頼は神篦城を攻めるため、小里勢は中島に、妻木勢は寺河戸に陣取った。
「夜ニ成リテ急ニ討テ、小里ノ故城ヘ入ル、遠山モ又四日五日岩村ヲ攻ム 皆功在リ、玄却・光親又討テ出、所々放火シ、一日市場ニ陣取ル、カカル所ニ田丸妹聟、福岡長左衛門、信州人嵐讃岐両人一所ニ成リテ神野ノ城ニ籠ルト聞ヘシカハ玄却・光親則往キテ攻ム、城中強ク防グ故、味方ウタルル者甚ダ多シ、 其後遠山・小里ノ両将岩村神野ノ両城ヲ押ヘ公命ノ下ルヲ待居タリ」(「小里家譜」九月三日)
光親は神篦城を攻めたが、十三河原で激戦となり、落とすことができなかった。利景らも岩村城を力攻めしたが、またしても落とせなかったのである。こうして東美濃では神篦城、岩村城を包囲したまま、膠着状態となった。
「天下分け目の関ヶ原の戦いを目前にした慶長5年(1600)9月1日、浅草寺の中興第1世忠豪上人は江戸城に召された。頼朝が平家を追討したときと同様、今度も祈祷を修するよう家康に申し渡された忠豪上人は、古式どおり浅草寺で観音密供を修した。」(「浅草寺の歴史」浅草寺を知るホームページ)
家康の出陣は9月1日となった。天海は出陣に先立ち、浅草寺の忠豪上人に戦勝の祈祷を依頼するように進言したのである。浅草寺は遠い昔、源頼朝公のために、平家追討の祈祷を行った由緒正しい寺院である。
頼朝公をこよなく尊敬する家康は、天海の忠告に従い、忠豪上人を江戸城に召すと、古式に則り、この度も戦勝の祈祷をするように申し渡したのである。
「これでいいか。」と、馬上の家康は尋ねた。
「はい、何事も士気を挙げることが肝要です。神仏のご加護は侮れません。」と具足に身を固めた天海は言う。
「よう似合っている。まさに左馬助よ。」と家康は笑ったのであった。
明知城
岐阜県 編『岐阜県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第5回,岐阜県,昭和11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1072674 (参照 2024-05-15)