天海 (178)

 

 

 

 京極高次は永禄6年、小谷城京極丸で生まれた。京極家は宇多源氏の名門であり、足利幕府では侍所の長官である四職家の一つであった。しかし、家臣であった浅井氏の下克上により、この頃は浅井家の居城である小谷城で庇護を受けていたのである。

 元亀元年(1570年)、高次は人質として信長のもとに差し出され、そのまま家臣として仕えた。

 本能寺の変が起きると近江にいた高次は、成り行き光秀に仕え、長浜城を攻撃した。山崎の戦いで光秀が敗れると、秀吉の追捕をうけて、柴田勝家のもとに身を寄せたのである。

 ところが今度は、勝家が賤ケ岳の戦いに敗れ、またしても高次はお尋ね者になったのであった。

 

 ここで高次に幸運が訪れる。妹・京極竜子は絶世の美女として知られ、秀吉の側室になっていたのである。竜子の懇願により、秀吉は高次を許し、近江国高島郡2500石を与えたのである。以後、5千石、1万石と順調に出世をし、大溝城主となり、浅井家の初正室に迎えたのである。京極家と浅井家は縁が深く、高次と初は、いとこ同士であった。

 

 初は秀吉のお気に入りの側室・淀殿の妹である。天正18年(1590年)には近江八幡山城2万8千石、翌年には従五位下・侍従となり、文禄4年(1595年)には近江大津6万石、従四位左近衛少将、さらに従三位参議となったのである。

 このような出世ぶりに、周囲からは妹や妻の尻の光で輝く「蛍大名」と揶揄されたのであった。

 

 高次にすれば、そのような陰口を悔しいと思う反面、事実であるとも認めていた。秀吉もまた、近江の名家である「京極」という家名を利用したかったのである。だから近江の戦国大名・浅井家の娘を嫁がせたのであろう。

 

 

 ただ高次にはどうしても、自分を許せないことがあった。それは「成り行き」で明智を選び、「成り行き」で柴田に身を寄せたことである。

 本能寺の変のときは周囲の近江衆の多くが光秀に従ったので、やむを得ないと思った。しかし結果は悲惨であった。追捕の兵に追われて、命からがら越前に逃げたのだった。あの時、蒲生らは光秀に与しなかった。なぜ自分はそれができなかったのであろうか。

 勝家の時も、お尋ね者の自分を匿ってくれた勝家に従うのは当然だと思った。しかし、またしても敗軍の将となったのである。こうしていつ死んでもおかしくない命を、女たちによって救われたのは紛れもない事実である。

 

 では、此度はどうか。高次は次の天下人は家康だと確信していた。しかし小身の悲しさで、心ならずも西軍に身を置いているのである。これで良いのだろうか、またしても自分は成り行きで人生を決めようとしている。高次の人生に三度目はないのだ。高次は自分の運命は自分で決めることにしたのである。

 

 9月1日、高次は西軍の北国方面軍の殿として関ケ原に向かっていた。ところが、近江東野で突然離脱すると、船で大津城に帰還したのである。大津城に籠城した高次は直政に、ここで西軍を迎え撃つことを伝えたのであった。

 

 西軍諸将は高次の離反を誰も予想していなかったようで、皆驚いた。輝元ら大坂方は、直ちに大津城に軍勢を差し向けたのである。その兵力は毛利元康、小早川秀包、立花宗茂ら1万5千人であった。迎え撃つ大津城は3千人である。蛍大名の意地が炸裂したのであった。

 

大津城復元図

大津市教育委員会 編『大津城跡発掘調査報告書』1,大津市教育委員会,1981.3.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12271479

(参照 2024-05-15)