天海 (177)

 

 

 

 家康はついに西上を決意した。

 8月27日、家康は諸将の岐阜城攻略を称え、近く家康・秀忠が出陣するので、それまで軍事行動を控え、待つように伝えた。

 8月29日、次に秀忠に対し、大久保忠益を派遣して、急ぎ東山道を西進し、9月9日までに美濃に入るように伝えたのである。つまりこの時まで、秀忠は西進する指示を受けていなかったことになる。しかも、この年は8月29日が月末(旧暦)であったので、かなり厳しい要求であった。

 一方、9月1日には、黒田長政、藤堂高虎らが布陣していた美濃国赤坂方面に、福島、池田軍が合流し、大垣城に圧迫を加えたのである。

 

 「然る所に将軍様(秀忠)は宇都宮より御出立被成、中道のかからせ給ひて押て上らせ給ひける處に、さなだが城へとをりがけに打よせ給ひける。将軍様御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡(本多正信)をつけさせたひて御供させたまふ。なにかの儀をもおのおのにまかせずして、佐渡一人して指引をしたちける。佐渡がさなだにたぶらかされ、我はの顔して五三日日をおくりける。何事も佐渡次第と被申て罷在間、佐渡がはからひも隼の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。」(「三河物語」)

 

 秀忠軍小諸城に達したのが、9月2日である。小諸城中山道の北にあり、秀忠が西方ではなく、上田城に向かっていたのは間違いない。秀忠は信幸を上田に派遣し降伏勧告を行ったのである。これに対して、昌幸は恭順の意を示し、剃髪して降参すると申し出たのであった。

 秀忠はこれを受諾し、翌3日から降伏交渉が始まった。秀忠は命だけは助けようと思っていたが、4日になると急に勝手なことを言い始めたので、もはや許すことはできないと思った(「秀忠の書状」)、というのである。

 怒り心頭の秀忠は、翌日5日から上田城攻めを開始したのであった。上田城に籠る真田は3千人、秀忠軍は3万8千人であるから、一日で落ちると考えていたようである。

 5日、上田城の側面を守る砥石城攻略を信幸に命じると、信幸は1000人で攻め上った。砥石城を守っていた真田信繁は激しい銃撃でこれを迎え撃ったが、実は空鉄砲であったという。一通り銃撃すると信繁は撤退し、あっさり上田城に入ったのである。こうして信幸は砥石城を占拠したのであった。

 9月6日、籠城する真田軍を誘き出すため、徳川軍は刈田を始めた。真田軍は数百人で出撃してきたので、徳川勢がこれを迎え撃った。数で勝る徳川勢はたちまち上田城大手門間際まで追い詰めたが、上田城から一斉射撃を浴びせられ、大きな被害が出たというのである。

 

 9月7日に秀忠直政・忠勝宛に「真田の仕置を終えたら、すぐに上洛する。」と返書しているので、ここで西進の方針を知ったようである。田城に抑えの兵を置くと、小諸城に戻った

 9月8日、久保忠益が家康の書状をもって、秀忠の陣幕に現れた。忠益は悪天候により利根川が増水して、到着が大幅に遅れたのである。その内容を見て秀忠は驚愕する。そこには9月9日までに美濃に入るよう、書かれていたのである。

 家康の要求は確かに厳しいものであった。しかし正信、康政らがいたにも拘らず、秀忠軍のこの体たらくは何故であろうか。9月9日どころか9月15日にも間に合わなかったのである。

 

 宇都宮の結城秀康・蒲生秀行には1万余の兵力しかなく、景勝(3万人程度か)の南下には対応できないと思われていた。秀忠軍はそのまま関東の守りにつく可能性が高かったのである。

 「おそらく我らは関東守備であろう。」という油断が遅参の最大の原因である。僅か3千人の上田城に3万8千人の秀忠軍は、明らかに兵力の無駄使いである。上田城には8千人も派遣すれば十分であり、秀忠は機動力を発揮できるよう東山道に留まるべきであったのだ。

 

 

真田信繁