天海 (176)

 

 

 

 無論、三成らにも言い分はあるであろう。この時、大垣城には石田隊(6千人)、小西隊(6千人)、他(3千人)しかいなかったのである。

 三成は大坂方に再三、美濃・近江方面への援軍を要請していたのだ。しかし西軍の主力である宇喜多隊(1万7千人)毛利隊(1万6千人)は伊勢方面に行っていた。しかも輝元はこの間に、四国や九州に派兵していたというのだ。

 だがそれでも、三成はこの1万5千人の兵力で、籠城する織田秀信(5千余人)とともに福島軍らを挟撃すべきであったのだ。これ以降、西軍に勝機はなかったのである。

 

 降伏した秀信は剃髪すると、高野山に送られた。しかし高野山は祖父・信長が激しい攻撃を加えたところであった。秀信は当初、入山が許されず、出家した後も迫害を受けた。後に高野山を追放され、麓の里で病死したと伝わる。享年26歳であったという。(但し、生存説もある。)

 

 「慶長五年八月廿三日、秀忠、明日、下野宇都宮ヲ発シテ信濃二入ラントシ、沼田ノ真田信之等ニ之ヲ告グ、明日、徳川家康、甲斐府中ノ浅野長政ニ、秀忠ノ信濃出陣ヲ告ゲ、之ヲ補佐セシム。」(「史料綜覧」)

 

 秀忠軍3万8千人がついに動いた。ここには榊原康政、大久保忠隣、本多正信ら徳川家の主力が揃っていたのである。目的は信州真田仕置である。第一次上田合戦は徳川8千人、真田2千人といわれている。しかし、この度の第二次上田合戦は徳川3万8千人に真田3千人であった。

 

 この時点で私には、全く理解不能である。いわば「卵を割るのに鉈を振っている。」が如くである。本当に西上するつもりであるなら、8千人を残し3万人で東山道を進めばよいであろう。つまり、この時点で秀忠軍は西上する予定はなかったのである。いわば、まだ半身の構えで、いざとなれば関東に戻る選択肢を残していたのであろう。

 

 「内府は今月四日に小山より江戸へ打ち入られ候。すなわち関東表へ罷り出づべきのところ、最上、政宗見合せ、慮外の躰候の条、急度申し付け、奥口に相済み、関東へ三昧仕るべく候の上は、卒尓に関東表調議に及び、奥口蜂起候へは、手成見苦しく候の条、右の分に候。但し、内府上洛議定に候はば、佐竹と相談ぜしめ、万事を抛って関東へ乱入の支度油断なく候の条、御安心かるべきの事。」(8月25日「景勝書状」一部)

 

 8月25日の大坂宛の書状景勝内府が上洛したなら、佐竹と相談のうえ、万事を投げ打ってでも関東に乱入する、と明言している。これが家康や秀忠が、なかなか上洛できない理由であった。

 

 秀忠軍が信濃へ進んだ後の情勢を、家康天海は注意深く見ていた。諸将はどう動くか、あるいは動かないのか。

 「伊達は白石城を奪ってから、あまり動きがない。むしろ南部領に侵攻したがっていて、相変わらず油断ならぬ動きをする。」と家康は懸念する。

 

 家康は一時、上洛の偽情報を流したが、これにも反応が薄かった。

 「案外、上杉は余裕がないのかもしれぬ。」と家康は考えるようになった。

 「景勝公はあくまでも逆心はない、という立場でございます。言いがかりをつけ攻めてくるなら受けて立つ、という心構えでしょう。関東に乱入すれば、自らその立場を捨てることになります。なかなか動けないのではないでしょうか。」と天海も言った。

 

 その時、美濃から岐阜城陥落の知らせが入ったのである。機は熟しつつあった。