天海 (173)

 

 

 

 「慶長五年八月五日、徳川家康、子秀忠ヲ下野宇都宮ニ留メ、江戸城ニ帰ル。」(「資料綜覧」)

 

 家康伏見城の落城を知ると落涙した。元忠とは、家康が11歳の時に駿府で出会い、57歳で永久の別れとなったのである。

 家康は、伏見城が危ういことに気づいていたという人もいるが、私はそうは思わない。伏見城の別れは物語の話であり、家康は、三成挙兵がこれほど大規模な反乱になると予想していなかったのである。

 

 家康は7月24日から9月14日までに外様大名82名に155通、家臣に20通という大量の書状を発している。景勝のみならず、北方の伊達家佐竹家の動向を警戒して、家康は動くに動けない。そして何かに取りつかれたように書状を書き続けた。この時点では三成の挟撃は見事に成功していたのである。

 

 「八月十三日、是ヨリ先、伊勢松坂ノ古田重然等、帰国ス、是日、毛利輝元、増田長盛、宇喜多秀家ヲシテ、伊勢ニ出陣セシム。」(「史料綜覧」)

 

 吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家は8月8日、伊勢に出陣した。さらに13日には長盛、秀家も出陣しているのである。

 三成はこの頃、清州城の正則を説得し、彼を西軍に付けようとしていた。もし、説得が成功したならば、正則と共に三河に侵攻するつもりであった。しかし、説得に失敗すれば衝突は避けられないであろう。このため三成は近江方面に援軍を派遣するよう、大坂の奉行に要請していたのである。しかし、大坂の輝元は伊勢方面を優先したのであった。

 

 8月14日、清州城に福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興らが集結した。22日には、本多忠勝、松平忠吉そして病の癒えた井伊直政も合流し、兵数は3万5千人となったのである。

 この間にも、長政や高虎は調略を続けている。長政家康広家の間を取り持っていて、8月17日にも長政は広家に書状を出している。

 

 忠勝、直政清州城にいて、秀忠、秀康、正信、康政、忠隣宇都宮にいた。いつの間にか、家康の周りに頼りになる重臣がいなくなった。無論、優秀な家臣は他にもいる。ただ戦略を語る人材がいないのだ。頭脳派である長安も所詮、文官である。

 

 「天海を呼べ。」と家康は命じた。

 天海が登城すると家康は、待ち切れぬように問うた。

 「平八から、早く征西せよと催促が来ている。大名連中が不満を漏らしているというのだ。天海、どう思う。」

 

 「はて、さて、これは異なことを申されますな。先陣が何故、本陣の到着を待たれますや。先陣の役割は本陣の露払いであれば、まずは、先を争って美濃を制すべきでありましょう。」と答えた。

 「そもそも、ここで先陣を切れぬのは、大名衆に迷いがあるからでございましょう。万が一秀頼公出陣となれば、秀頼公に弓引くことにもなりかねません。恐らくは三成の調略に惑わされているのでしょう。まず、木曽川を渡りなされと命じられることです。旗幟を鮮明にせよと叱るべきでしょう。」と言ったのである。

 家康は満面の笑みで、「全く同感だ。オレもそう思う。まずは木曽川を渡るべきである。」と言ったのである。

 

木曽川