天海 (172)

 

 

 

 「岩村城主田丸中務大輔直昌は西軍に党し岩村近隣の百姓を集め田丸方へ同心致さば知行宛行ふべしとて、或は三百石五百石の墨附を渡し人質を取る。妻木氏之を聞き夫より浅野高山大富久尻邊の百姓へ令ずらく『此度田丸方へ同心に於ては家康より討手向はんは必定なり。田丸方より人質取に来る時は早速注進すべし。其時当方より、追手遣し、田丸が一類共討取るべし』と。」(「妻木戦記」)

 

 慶長5年8月初頭、尾張国犬山の石川貞清は妻木家に「三成に与するように」との密書を届けた。しかし妻木家からは「家康公からご恩を受けているので、お味方できない。」との返書を受けたのである。

 田丸家の重臣で岩村城代の田丸主水は付近の庄屋等に「田丸に味方すれば300石、500石の知行を与える。」といって人質を取った。これに対して妻木頼忠は領内の庄屋等に「田丸方に味方すれば家康から追討を受けるのは必定である。田丸方から人質を取りに来たら注進せよ。」と伝えたのである。

 

 「然るに土岐郡曽木村より注進あり。依て妻木雅楽之助八月十二日山神(日東)久右エ門惟定土本角右エ門兄弟を召し、曽木村に出陣せしめ、田丸方軍勢と合戦に及ぶ。山神久右衛門三尺八寸の大業物打振廻し獅子の怒をなして戦ひけり。」(「妻木戦記」)

 

 曽木村に続き、8月20日には、柿野村に田丸方が侵入したとの注進があったので、那須作蔵中垣助右衛門を派遣した。この合戦では、山神(日東)が横から鉄砲を撃ちかけたので、田丸勢は逃げ去ったのである。

 さらに田丸方は池田長瀬雑兵300人を派遣してきた。妻木方は立石に布陣し、待ち伏せしたのである。田丸方が土岐口町屋入口の川を渡るところを、妻木方が鉄砲で撃ちかけた。両者は合戦となり、田丸方の侍大将・寺本吉右衛門ほか、二・三十人が討ち取られた。この合戦では、妻木方も一人討たれ、多数の手負いが出たという。

 

 「是より先、遠山利景は家康の命を奉じて、小山より江戸に至り、男・方景を具して旧地に帰り八月下旬小里光親と共に明知城を攻む。」(「恵那郡史」)

 

 三河国足助城は利景正室の実家であった。利景は一足先に養子の経景庄兵衛のもとに送っていたのである。経景は庄兵衛屋敷で伝蔵と落ち合い、串原、明知などから明知遠山恩顧の農民・浪人を数百名集め、西上する利景勢を待っていた。

 利景が美濃に入ると経景、伝蔵らはこれに合流した。利景の軍勢は700人を超え、これを明知遠山家500余名小里勢200名に分けたのである。

 「田丸は岩村城防衛のため、主力を岩村に集めているであろう。これは好機である。必ずや勝利を収めてみせる。」と利景は眦を決したのであった。

 

 「苗木城主川尻直次は、先に家康東征の際、大阪警護を命ぜられ大和口の守備に任じつつ在ったが、後遂に西軍に属した。苗木城は城代関盛祥之を留守にして東軍に抗した。旧城主遠山友政は小山に於いて家康より軍資竝に鉄砲・弾薬等の軍需品を給せられ、山村義勝、千村義重、小笠原靭負、今泉五助等と共に旧領に入った。」(「恵那郡史」)

 

 友政木曾衆と共に旧領・苗木に入った。友政帰還の噂は忽ち領内に広がり、苗木遠山家恩顧の領民が次々と軍勢に合流したのである。真地平に布陣した時には、その数は数百人に膨れ上がったのであった。

 苗木城代・関盛祥は、この状況を見て防戦は困難と判断した。盛祥は家臣と共に木曽川を渡ると伊那方面に逃げて行ったのである。

 こうして友政は領民たちの歓喜のなか、風吹門から入城し、18年ぶりに旧領を回復したのであった。

 

苗木城