天海 (170)

 

 

 この時期、小里光親は相模国で300石の知行を得ていた。従う者は小者を入れても10人余りで、単独で作戦行動がとれる状態ではなかったのである。

 「助衛門殿は急ぎ相模に戻り、ご出陣の支度をしてくだされ。我らも用意出来次第、相模に向かいますので、共に美濃に向かいましょう。」というと、

 「そうしていただけると有り難い。恩に着ます。」と光親は手を合わせた。

 

 利景の直臣は80人余りである。これに口入れ屋から足軽を雇い入れても、150人程度であろうか。

 「このご時世では今から募集しても、とても人数が足りません。」と方景はいうのだ。

 「武蔵遠山家からご支援願おう、何としても200人は欲しい。」と利景は言う。これには天海の人脈が役に立つかもしれない。

 妻木城に600人加勢が入るのなら、庄兵衛のところの伝蔵にもひと働きしてもらおう、と考えた。そこで養子の経景を一足先に庄兵衛のもとに派遣したのである。利景らは三河の足助城に集合し兵力を整え、美濃に進軍することにしたのであった。

 

 「慶長五年七月廿九日、徳川家康、出羽山形ノ最上義光ニ西上ヲ告ゲ、徳川秀忠ト会津ノ軍事ヲ議セシム。」(「史料綜覧」)

 

 家康会津征伐をいったん中止し、江戸に戻ることにした。景勝と対陣している東北諸将には秀忠軍を残すことで、安心させたのである。

 また、美濃の大半が西軍に与したので、尾張福島正則三河池田輝政らを先に西上させていた。

 

 家康の書院に正信、忠隣、長安、忠勝、康政、直政らが集まっていた。そこに高虎天海が訪れたのである。

 「おぉ、来たか、与右衛門、天海ご苦労であった。天海、小早川家の稲葉はお手柄であった。万千代とも話したのだが、黒田も動いてくれていたようだ。あやつが味方に付けば大きい。」と家康は手放しで喜んだ。

 「されど、中納言様は些か心許ないと思われます。」と空かさず正信が合の手を入れる。この辺は阿吽の呼吸であろう。

 「ついては、天海にはこのまま陣幕に留まってもらう。勘右衛門と一緒に美濃に行くなよ。」と言って笑った。

 「与右衛門脇坂とのつなぎ、今後も頼む。京極は弟がこちらにいるし、本人も内応したがっている。与右衛門には引き続き近江衆を頼む。」と言った。

 「三成のところには、心ならずも参加しているものも多数おります。調略の件はお任せください。」と高虎は力を込めていった。

 

 「さて問題は伊達よ。」と康政は言う。

 「伊達は、会津征伐がないと知ると、単独で上杉と講和する恐れがある。最上家単独では上杉に対抗できず、は一揆に押されて、越後をまとめ切れていない。最も恐るべき事態は、上杉を盟主にした奥羽連合が出来あがり、景勝が勇躍、関東に攻め込むことになれば大変なことになる。そうなると、我らもうかうか西上出来ない。」というのである。

 「今のところ秀頼公のご出馬はなさそうですが、万が一ご出馬となると、福島侍従様や池田侍従様が矛先を東に向けるやもしれません。まずは、抜き差しならぬ所まで追い込まなければ、迂闊に西へは進めません。」と正信も言う。

 「しかしながら、東海道奥羽も徳川は知らん顔で、江戸で惰眠を貪る訳にも参りません。某が西上します。」と忠勝が言うと、

 「いやまて、平八には上田に赴き真田を説得してほしいのだ。ここは万千代、お前が東海道を西上せよ。」と家康は直政に命じたのである。

 「御意。」と直政は頷いた。

 

井伊直政