天海 (168)

 

 

 

 「慶長五年七月廿七日、八條宮智仁親王、西軍ノ長岡玄旨(幽斎)ヲ丹後田辺城ニ囲ムヲ聞キ、侍臣大石甚介ヲシテ、之ヲ諭シ、城ヲ致サシメラル、是日、玄旨、之ヲ辞シテ、古今集證明状及ビ和歌ヲ親王ニ、源氏抄・二十一代集ヲ禁裏ニ献ズ。」(「史料綜覧」)

 

 さて、僅か500名の守備兵で1万5千の西軍に攻められた細川幽斎は既に風前の灯火であった。ここで幽斎は「搦手」を繰り出す。朝廷から八條宮智仁親王が田辺城にやって来たのである。

 「幽斎殿は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されていて、万が一、幽斎殿が討死されると、古今伝授の断絶が懸念される。」という。そこで使者を遣わし、開城を求めるというのである。

 しかし、幽斎はこれを断り、「自分は討死する覚悟である。」と伝えると、古今伝授相伝完了の証明書である「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上したというのだ。

 これで朝廷は大騒ぎとなり、遂には天皇までもが講和に動く事態となった。この間、西軍は城攻めを中断せざるを得ず、まんまと幽斎の術中に嵌ったのである。

 

 「慶長五年七月廿八日、徳川家康、尾張犬山城ノ石川貞清等ノ、西軍ニ応ジ木曽口ヲ扼塞スルヲ聞キ、前美濃苗木城主遠山友政等ヲシテ、帰国シテ兵ヲ起サシメ、信濃木曽氏ノ遺臣山村良勝・千村良重等ヲシテ、木曽ヲ平定セシム」(「史料綜覧」)

 

 家康は信幸の参陣を大層喜んだという。同時に東山道が真田によって遮られたことを懸念した。

 「どうやら三成上田を通じて、会津と音信を取っている模様です。東海道だけではなく東山道も抑えねばなりますまい。」と正信は言う。

 「昌幸め、面倒ばかりかけおって。」と歯ぎしりするが、今はまだ、上田城攻めは時期尚早である。

 「まずは、木曽口を塞ぐ石川備前(貞清)を打ち果たす。木曽に旧領を与えてはどうか。」と家康は問うた。

 すると、総代官の大久保長安が進み出て、

「義利は粗暴な振舞が多く、家臣が離れております。大任を任せるのは如何なものでしょうか。」と懸念を示した。

 家康が正信の方を向くと、正信が重い口を開いた。

 「同感にございます。残念ながら、愚鈍につき将の器にはございません。」と言い切ったのである。

 家康は、大きくため息をつくと、「武田の名家も、これで終いか。」と嘆いた。

 「ただ木曽の家臣に見所のある者がおります。」と長安は言った。

 

 「信州木曽中諸侍、先規の如く召し置かるるの条、各々その旨を存じ罷り出で、忠節を致すべく候、猶山村甚兵衛・千村兵右衛門尉・千村助左衛門尉申すべく候也

 慶長五年八月朔日 朱印(家康)

木曽諸奉公人中    本多佐渡守                                       奉之       大久保十兵衛」

 

 家康は木曾氏を改易した後に、禄を離れ牢人となっていた山村良勝、千村良重、馬場昌次らを呼び寄せると木曽谷の奪還を命じたのであった。

 

 

北島藤次郎 著『史実大久保石見守長安』,

鉄生堂,1977.9.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12263239

(参照 2024-05-03)