天海 (167)

 

 

 

 「是ヨリ先、信濃上田ノ真田昌幸、長子信之・次子信繁(幸村)ト、徳川家康ニ従ヒテ下野ニ進ム、昌幸西軍ニ応ジ、信繁ト共ニ上田ニ帰ル、是日、家康、信之ヲ褒シ、又信濃松本ノ石川康長、松城(松代)ノ森忠政ヲシテ各其封ニ帰リ、昌幸ニ備シム。」(「史料綜覧」)

 

 徳川家の与力大名である信濃国上田の真田昌幸・信繁の父子は、嫡男・信幸沼田城に集結すると、秀忠が率いる3万8千人の会津征伐軍の先陣に参加するため、宇都宮に向けて出陣した。秀忠軍は徳川家の主力を集めた精鋭軍である。家康率いる本隊には豊臣恩顧の大名が多く、恐らく秀忠には荷が重かったのであろう。

 

 ところが7月21日、宇都宮の手前にある犬伏の陣所へ、三成の密使が到着したのである。昌幸は三成とは姻戚関係義兄弟でもあった(それぞれの妻が姉妹)。また、次男・信繁の正室大谷吉継の娘であるため、この二人は、三成に与することを主張した。

 しかし長男の信幸は、徳川家につくことを主張したのである。信幸は上野国沼田を領していて、家康に近習し、本多忠勝の娘、稲姫(小松殿)を家康の養女として娶っていた。信幸は家康こそ次の天下人であるとの確信があった。

 

 3人は長時間にわたり、激論を繰り返したという。あまりにも評定が長いので、家老の河原綱家が心配になり、部屋の様子を覗くと、

 「誰も入るなと、申したであろう。」と昌幸は激高し、下駄を投げつけたという。下駄は綱家の顔面に当たり、前歯が折れた。

 

 結局、両者は合意せず、真田家は東西に分裂した。これが有名な『犬伏の別れ』である。東西のどちらが勝っても真田家が生き残れるようにした昌幸の戦略であるとも言われているが、本当であろうか。私はやはり両者は最期まで合意できなかったのだろうと思う。東軍にいる昌幸も、西軍にいる信幸も、私には想像できないのである。

 

 昌幸と信繁は直ちに上田に向けて引き返すのであるが、途中、沼田城に立ち寄ろうとする。しかし、信之正室・小松殿は入城を拒否するのである。

 

 「暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし。」(「滋野世記」)

 

 さてこの話は有名で、繰り返しドラマでも演じられている。出典も「御家書留書」「真田御武功記」「沼田記」「出浦助昌家記」と多い。ただ疑問な点がなくもない。豊臣大名である信幸の正室が、何故大坂ではなく、上田にいたか、ということである。ただ信幸はあくまでも昌幸の嫡男であり、沼田は上田の支藩に過ぎなかったのかも知れない。

 

 「昌幸は、之を聞いて、天晴なる本多氏の挙動だ。流石は忠勝の息女である。真田の妻としては恥ずかしからぬものである。われ其意を汲み取らずして入城を乞うたのは、全くの誤りであったと後悔して、更に使いを城内に遣って、余は唯児孫の顔を見たいと思ったまでである。何も城を奪うなどと企つることがあろうかと、申送った。本多氏は、家臣に命じて、旅宿を定めて、鄭重に饗応した。」(「日本伝説叢書 信濃の巻」)

 

小松殿