天海 (166)

 

 

 

 「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)

 

 伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。

 

 「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。

徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、

 是ヨリ先、近江大津ノ京極高次、老臣山田良利ヲ江戸ニ質トス、是日、徳川家康、良利ニ密使ヲ含メテ帰国セシム。」(「史料綜覧」)

 

 高次利景を追うように、重臣・山田良利に返書を持たせて、江戸に送った。家康は上方の状況を具に尋ねると、密書を授け、帰国させたのである。

 

 「是ヨリ先、筑前名島ノ小早川秀秋、徳川家康ニ通ズ、石田三成、之ヲ疑ヒ、山城伏見城ヲ攻メシム、秀秋、密ニ豊臣秀吉後室杉原氏(高台院)と図リ、是日、城ヲ攻ム。」(「史料綜覧」)

 

 家康下総国古河に入ると今度は秀秋の密書が届いた。利景から既に情報を受けていたので、概ね内容を承知していたが、秀秋自体は手放しで信用できる相手ではなかった。

 

 「徳川家康、下野小山ニ著ス、山城伏見城守将鳥居元忠ノ急使ニ接シ、諸将ヲ招集シテ、去就ヲ問フ、黒田長政、福島正則等ノ諸将、誓書ヲ致ス、家康、結城秀康ヲ会津口ノ将ト爲ス、尋デ、正則等、西上ス。」(「史料綜覧」)

 

 家康が「内府ちかひの条々」を知ったのは、7月23日頃であったという。家康は、三奉行を手なずけていると考えていたので、大層驚いたという。

 7月24日、下野国小山に着いた家康は、ここで諸将と評定を開いた。これが有名な「小山評定」である。ただ最近の研究では、「福島正則が家康に与することを宣言し、人質となった妻子のことは顧みない、と演説した。」というドラマのような展開はなかったと言われる。

 ただ、小山評定が全くなかったと考えることも不自然である。会津征伐軍は家康が率いているが、あくまでも「豊臣軍」である。二大老と三奉行に「秀頼」を奪われては、会津征伐の正当性が脅かされるのだ。改めて諸将の団結を謀らねば、三々五々脱落者が出て、征伐軍が霧散する可能性がある。

 どのような形の評定であろうと、諸将は先に三成ら上方の手勢を討つことを決したのである。先鋒として福島正則池田輝政清洲城に遣わすこととした。すると、遠江国掛川城主の山内一豊は、家康に城を提供すると申し出た。これに呼応して東海道沿いに居城を持つ武将たちは、それぞれ居城を家康に提供したのである。

 

 美濃国岩村城田丸直昌は、諸将が家康に味方するのを見て、豊臣恩顧の大名として、西軍に与する決断をした。これで美濃の主な大名は、ほとんどが三成方に付いたのである。庄兵衛の予想通り、与力の妻木家は難しい立場に立たされることになった。妻木家の所領は凡そ7千石で、兵力は200名程しかなかったのである。

 

 

 

小山市史編さん委員会 編『小山市史』史料編 近世 1 本編,小山市,1982.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/9642595 (参照 2024-05-02)