天海 (165)

 

 

 

 近江から久尻村の庄兵衛の屋敷に着くと重大な知らせが入っていた。

 「勘右衛門殿、良く戻られた。これをご覧あれ。」と差し出された書状を見ると、「庄兵衛さま」と書かれた女文字の文であった。

 「これは、お福殿か。」と慌てて書状を読むと、驚くべきことに「小早川家は徳川方に内応することに決した。」というのである。

 「お福殿が申すには家老の稲葉、平岡の両名が秀秋公を説得したとのことで、近々内府様に密書が届くというのだ。この事いち早く内府様にお伝え願いたい。我らの大きな手柄となる。」と庄兵衛は言う。

 「心得た。」というと、利景は取るものも取り敢えず、大急ぎで江戸に帰っていったのである。

 「平岡直政公の手柄であろうが、稲葉明智の手柄だ。お耳に入れるのは一日でも早い方がいい。」と利景は馬を走らせたのであった。

 

 「慶長五年七月十八日、丹後田邊ノ長岡玄旨(幽斎)、大坂ノ変報ヲ聞キ、同国嶺・宮津ノ諸城ヲ焼却シ、田邊城ヲ死守セントス、尋デ、石田三成ノ兵、之ヲ圍ム。」(「史料綜覧」)

 

 大坂の変ガラシャの最期を知った幽斎は、只ならざる事態と判断し、居城である宮津城を焼き払い、田辺城に全軍(500名)を集めて籠城したのである。

 一方、「西軍」は伏見城攻撃を決断し、同時に畿内にある会津征伐軍(以下「東軍」)の城に攻撃を開始した。こうして幽斎が籠る田辺城織田信包、小野木重次ら1万五千もの兵で囲まれたのである。

 しかし幽斎は文化人として多くの大名に尊敬を受けていたため、攻撃を躊躇するものも多かった。丹波国何鹿郡・1万6千石の谷衛友は400余名を率いて、家康に従い会津に出征するはずであったが、三成の挙兵に行く手を遮られ、心ならずも西軍に加わった。衛友は幽斎と密かに内応し、攻撃の際には空砲を撃ったという。激しく抵抗した田辺城であったが、兵力差は如何ともし難く、7月末には落城寸前となったのである。

 

 「慶長五年七月十九日、是ヨリ先、石田三成等、山城伏見城守将鳥居元忠等ヲシテ、城ヲ致サシム、元忠、徳川家康ニ変ヲ報ジ、兵ヲ出シテ附近ニ放火ス、是日、西軍ノ諸将、城ヲ囲ミテ攻撃ス、若狭小浜ノ木下勝俊、同城ヲ脱出ス、尋デ、毛利輝元、豊臣秀頼ニ代リテ、諸将ヲ督ス。」(「史料綜覧」)

 

 大坂の異変を知った鳥居元忠は、伏見城下の前田玄以、長束正家らの大坂方の屋敷を焼き払い、状況を家康に報告した。当時、伏見城には1800名ほどの城兵しかいなかったのである。元忠は最初から玉砕覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、徹底抗戦を続けたのであった。

 伏見城内には豊臣一族衆である木下勝俊が松の丸を守備していたが、包囲軍に弟の小早川秀秋がいたため、元忠はこれを城外に追い出した。

 その後、伏見城は秀家、義弘、秀秋らに取り囲まれ、さらに23日には毛利軍の1万が加わり、総勢4万の軍勢によって攻撃されたのである。攻城軍は昼夜を問わず鉄砲を撃ち掛けたのであるが、それでも城は容易に落ちなかった。

 

 「先書ニも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理ニ四方ヨリ乗込、一人も不残討果候、大将鳥井首ハ御鉄砲頭すゞき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、やきうちにいたし候。」(三成書状)

 

 8月1日、雑賀衆・鈴木重朝(雑賀孫一・孫三郎)は、伏見城内の甲賀衆を内応させた。甲賀衆は城内で火を放ち、雑賀衆を引き入れたのである。最後まで抵抗した元忠も、ついに重朝の槍に突かれて絶命したのであった。

 

木下勝俊