天海 (164)

 

 

 

 「ならば、南へ下り、鈴鹿関を通ってはどうか。ただ伊賀を通るので、些か不安であるが。」と庄兵衛は言う。

 「うむ、山道が続くが、距離はさほど変わらない。伊賀なら地理に詳しい者もいる。分かった、南に向かおう。」と利景も同意する。

 利景は商人になりすますと、家康に付けてもらった伊賀者と共に庄兵衛の屋敷を出ようとした。

 「待たれよ、伝蔵を連れて行くがよい。この者は商いに詳しく、顔も広い。きっと役に立つだろう。」と庄兵衛は案内役として伝蔵を同行させたのである。

 

 利景を店主、伝蔵を番頭役にしたて、一行は鈴鹿関を抜けて南近江に入った。上手く愛知川の関所をすり抜けることが出来たのだ。近江の人々には緊張感が溢れていた。

 「これは大きな戦になる。」と小声で囁きあっている。皆、怯えているのだ。利景らは慎重に行動した。大津に入ると、伊賀者を連絡役にして、ようやく大津城内で高次に会えたのである。

 

 「これは、これは、民部殿、よくここまで来られましたなぁ。」と高次は驚いたように言った。

 「はい、正直ここまで苦労するとは思いませんでした。我殿からの書状にございます。」というと家康からの書状を渡し、

 「我殿からはくれぐれも、京極侍従様には徳川にお味方いただけるように、誠意をもってお願いするよう申し付けられております。」と利景は伝えた。

 「分かっておる。我が心は常に内府様と共にある。されど、ここは三成や三奉行の支配するところで、どうにも思うに任せぬのだ。いわば敵の真ん中にいるので、心ならずも同心したふりをせねば、我が家が滅ぼされるは必定である。しかし必ず、最後は内府様にお味方するので、是非とも某を信じていて欲しい。」と高次は苦しそうに言った。

 

 「今、上方勢は勢いが盛んで、心ならずも陣中にいるものが他にも多数いる。内府様から彼らに連絡を取りつけ、援けてもらいたいのだ。」というのだ。

 「例えばどのような方々でしょうか。」と尋ねると、

 「はっきり分かっているのは、脇坂様だ。あと朽木様小川様などであろうか。他にもたくさんいるはずだ。」と高次は言った。

 

 用件が終われば、ここに長居は無用である。家康宛てに何度目かの書状を認めると利景は、素早く近江を抜けようとした。美濃の庄兵衛のところに戻るまで、どうしても気が急く。

 「あまりお急ぎにならぬよう。」と伝蔵に忠告を受ける。

 「急ぎ足は怪しまれます。商人らしくゆっくりと歩かれた方が良いです。」というのだ。

 「ああ、なるほど。」と利景は思う。落ち着け、ここはまだ敵地だ。

 「なぁ、伝蔵、お前も遠山一族であったな。これでは美濃も大乱になるやも知れぬ。連絡を取り合い、かつての遠山一族を集めてはくれぬか。妻木だけではどうにも心許ない。」と利景が言うと、

 「はい、庄兵衛様からも同じことを言われています。古い伝手を辿り、今は百姓をやっている者にも声を掛けております。」と伝蔵は言う。

 「うむ、必ず役に立つはずだ。ともに美濃の名家、遠山一族の底力を見せようぞ。」と利景は頷いた。

 美濃の名家と言われた土岐家遠山家も、今は見る影もない。復権を願うものは決して少なくはないはずだ。