天海 (163)
「慶長五年七月七日、徳川家康、陸奥会津出陣ノ期日ヲ定メ、軍令ヲ下ス。
八日、徳川家康、榊原康政ヲ先鋒トシ、陸奥会津ニ出陣セシム。
九日、徳川家康、尾張ノ福島正則ノ出陣ヲ褒ス。
十四日、毛利輝元ノ摂津木津亭ノ留守益田元祥等、吉川広家ト議シ、徳川家康ニ輝元ノ石田三成等ノ挙兵ニ關輿セザルヲ告ゲントス、明日、輝元、大坂ニ著スルニ依リテ止ム。」(「史料綜覧」)
家康は会津征伐を進める一方で、他の武将がなかなか東下してこないことに不審を覚えた。その時、広家から書状が届く。
「この度の三成の挙兵には輝元は関与していない。」というのである。これだけを読むと三成による小規模な反乱のようだ。
この時点では、家康はまだ西国諸将を巻き込んだ大規模な反乱であるとは認知していない。これは三奉行らによって対処できる範囲であり、天海や正信が懸念していた事態には、まだ至っていないと判断していた。
7月16日、細川忠興が宇都宮に着陣した。翌日の17日に大坂留守居役の家臣・小笠原秀清の書状(7月9日付)が届き、三成が挙兵し、上方が敵に回ったこと、正室ガラシャが人質になることを拒否したことが伝えられた。
家康はすぐに旗本の利景を呼んだ。
「勘右衛門、急ぎ大津に行って貰いたい。大津の京極侍従にこの書状を渡してほしいのだ。」と家康は難しい顔で言った。
「内容は火急なものでございますか。」と利景も真顔で尋ねると、
「いや、内容はただの会津征伐の報告であるが、お前には、その目で西方の状況を見極めてきて欲しいのだ。
まず東海道筋の諸将はどのような動きをしているか、特に美濃と近江の状況を詳しく探って欲しい。どうも上方はただならぬ情勢なので慎重に頼む。よいか、侍従には必ず徳川の味方になるよう説得するのだ。三成に大津を抑えられては何かと面倒だ。」と家康は渋面を作った。
「危険な勤めになるやも知れぬ。伊賀者をつける。勘右衛門、よいか、死ぬなよ。」と家康は念を押したのである。
利景は十数騎の騎馬隊を率いて東海道を駆けあがった。宿泊のたび、情報を仕入れ家康に書状を送ったのである。今のところ東海道は特に変わったことはないようである。
「問題はこれからだ。用心するなら、美濃に入ってからであろう。」と利景は思う。
「恐らく徳川方の書状が滞っているのは不破関が押さえられているからであろう。まっすぐ東美濃に入り庄兵衛殿に情勢を尋ねることにしよう。」と考えたのである。
利景の突然の来訪に庄兵衛は驚いた。
「書状を書いていたところだ。一歩遅かったか。」と気まずそうに言うと、
「ただならぬ事態だ。努々楽観してはならぬ。」と厳しい顔で言った。
「美濃は岐阜の織田家が三成に付いたので、大半の大名は上方に靡いている。田丸家は当主が不在で、態度を決めかねているが、恐らく織田家に付くであろう。妻木は今、息をひそめているが、間違いなく徳川だ。だが、妻木単独では、寄親に抗しがたい。是非とも徳川の支援が欲しい。」という。
利景が大津に向かうというと、
「それは危険だ。愛知川あたりに三成方の関所がある。」というのだ。
「今、上方方面は十万余の兵で溢れており、これには京極様も同調せざるを得ないであろう。やめた方がいいぞ。」と庄兵衛は言うのだが、
「そうはいかないのだ。」と利景は笑った。
京極高次