天海 (162)

 

 

 

「内府ちかひの条々」

 

 「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。

  一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。

  一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。

  一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。

  一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。

  一、十人(奉行と年寄)しか誓紙が認められていないのに、勝手に諸侯と誓紙を交わしている事。

  一、本来、北政所様の御座所である大坂城西ノ丸に住んでいる事。

  一、西ノ丸に本丸のような天守を築いた事。

  一、諸侯の妻子をひいきによって国許に帰した事。

  一、法度に背いて諸侯と縁組みしている事。

  一、若衆を扇動、徒党を組ませた事。

  一、五奉行(大老のこと)がいるのに、独断で決裁している事。

  一、私的関係で便宜を図り八幡宮の検地を免除している事。

 

 右の事、太閤様の誓紙、御遺命に背き、何の政治であろうか。この上は、一人残らず秀頼様お一人を主人と仰ぎ奉ることが当然である。」

 

 慶長5年(1600年)7月17日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は全国の大名に「内府違いの条々」を発出した。これは事実上、家康に対する宣戦布告である。この書状には添え状がついていて、三奉行の他に大老の毛利輝元、宇喜多秀家の署名が連ねられていた。つまりこの時点で、既に輝元は大坂城にいたのである。輝元はこの乱の主犯の一人と考えて間違いない。

 

 「急度申候、従、両三人、如此之書状到来候条、不及是非、今日十五日出舟候、兎角秀頼様へ可遂忠節之由言上候、各御指図次第候、早々御上洛待存候、恐々謹言、  七月十五日 芸中  加主  御宿所」

 

 7月15日の輝元から清正に送られた書状である。「両三人」とは三奉行のことであろう。ともかく「秀頼様のために忠節を尽くし、指図を受ける。」といっているのである。清正はこの頃、家康から謹慎処分を受けていたので、西軍に付く、と輝元は踏んでいたのであろう。

 

 7月17日、輝元は三奉行の要請を受けて、家康征伐軍の総大将になり、大坂城西ノ丸に入った。この時、毛利秀元は西ノ丸にいた徳川方の留守居役を排除している。

 

 では、この頃、三成はどこにいたのであろう。「時慶記」によると7月18日に京都の豊國神社に参詣しているという。まだ大坂には着いていないようなので、「内府違いの条々」に署名がないのは当然である。

 

 さて、これから西軍は本格的な軍事行動に出る。7月19日前田玄以、長束正家の部隊が、徳川家重臣・鳥居元忠が守る伏見城を包囲したのである。

 一方、細川幽斎の居城・田辺城にも西軍1万5千人が押し寄せた。細川家は忠興が正規軍を率いて東下していたので、田辺城には僅か500名の守備兵しかいなかったのである。ガラシャに続き幽斎にも危機が訪れていた。

 

田辺城