天海 (159)

 

 

 

 佐和山三成吉継が挙兵することを決したのが、7月11日である。その翌日には大坂にいる奉行・増田長盛家康(家臣・永井直勝宛)に書状を出している。吉継垂井で罹病し、三成出陣の準備をしていると報じているのだ。色々と雑説があるので、追ってまた報告すると言っている。

 

 「一筆申入候、今度於樽井、大刑少日相煩逗留、石治部出陣事申分候而、爰許雑説申、猶追々可申入候、恐煌謹言、

 七月十二日      増田右衛門尉長盛

  永井右近大夫殿」

 

 つまりこの時点では三奉行大老・家康の指揮下で三成らの行動を監視していたことが分かる。ところが、次のような書状も存在しているのである

 

 「大坂仕置儀付而、可得御意候間、早々可被成御上候、於様子者、自安国寺可被申入候、長老為御迎可被罷下之由候得共、其間も此地之儀申談候付而、無其儀御座候、猶早々奉待存候、恐煌謹言、 七月十二日  長大 増右 徳善  輝元様 人々御中」

 

 同日、三奉行輝元に対して「大坂の仕置きについて、相談したいことがあるから大坂に来て欲しい、安国寺恵瓊をお迎えに派遣するところですが、現在多忙で、それも出来ません。」といっているのである。恵瓊は何故そんなに忙しかったのであろうか。

 

 さて、いわゆる西軍の総大将が「毛利輝元」であることは知られている。しかし、輝元は大坂から動かず、実働部隊の指揮官は「石田三成」であったとされる。ところが7月12日、三成がまだ佐和山にいるにもかかわらず、大坂でも着々と「西軍」は活動しているのである。

 

 三成を挙兵に導き、三奉行を説得し、毛利家を動かした、この一連の筋書きは誰が書いているのであろうか。関ケ原の戦いの影の主役は誰であろうか。私は、間違いなく安国寺恵瓊である、と考えるのだ。西軍が連動して動いているのは、この乱の主犯である恵瓊の仕業であろう。

 

 「一、石田治部少輔の乱の年の七月十二日に、小笠原昌斎・河北石見両人御台所まで参られ候て、私を呼び出し、申され候は、治部少輔方より、何も東へ御たちなされ候大名衆の人質をとり申候よし風聞つかまつり候か、如何候はんやと申され候ゆへ、すなわち秀林院様へそのとをり申上候、秀林院様御意なされ候は、治部少輔と三斎様とはかねかね御間悪しく候まゝ、さためて人質取り申初めに、此方へ申まいるへく候、はしめにてなく候はゝ、よその並もあるへが、一番に申きたり候はゝ、御返答いかゝあそはされよく候はんや、小笠原昌斎・河北石見分別いたし候やうにと御意なされ候ゆへ、すなわち其とをりを、わたくしうけ給、両人に申渡し候事、」(「霜女覚書」)

 

 7月12日、大坂の細川邸にいた珠子(ガラシャ・秀林院)に危機が迫っている。会津征伐に参加した大名の妻女を人質にとるとの風聞が広がっていた。珠子は「三斎(忠興)様と治部は仲が悪いので、私は人質に選ばれたのでしょう。」といっている。だがこの時、三成は佐和山城にいたのである。よって、この人質作戦を考えたのは三成ではなく、恵瓊奉行の仕業であろう。

 

安国寺恵瓊「教導立志基三十三:羽柴秀吉」

(月岡芳年)