天海 (158)

 

 

 

 「慶長五年七月一日美濃岐阜ノ織田信秀、東国ニ出陣セントス、尋デ、石田三成ノ勧ニ依リ、近江佐和山ニ至ル。」

 「七月五日、備前岡山ノ宇喜多秀家、山城豊国社ニ詣ヅ。」

 「七月十一日、近江佐和山ノ石田三成、家臣樫原彦左衛門ヲシテ、越前敦賀ノ大谷吉継ノ東下ヲ美濃垂井ニ要シテ、佐和山ニ迎ヘ、徳川家康ヲ討タンコトヲ議ル。」(「史料綜覧」)

 

 岐阜城主・織田信秀は7月1日に、会津に向けて出陣する手筈であった。ところが、出陣の準備に手間取っているうちに、三成の勧誘を受けたのである。そこで三成から、勝利のあかつきには織田家の旧領「美濃・尾張の2ヶ国」を与えるとの条件を示され、佐和山に立ち寄ることになった。

 

 7月2日、大谷吉継が会津征伐に参加するため敦賀城を出立した。美濃の垂井まで来ると、三成の使者という樫原彦左衛門が訪れ、佐和山城に立ち寄るように告げたのである。そこで吉継は「」と偽り佐和山に向かった。

 佐和山城で、三成は反家康の挙兵計画を打ち明け、参加を強く促した。吉継は「とても勝ち目がない。」として、拒否するが、三成の意思は固かったのである。7月11日、ついに吉継は味方に加わることに同意した。

 

 7月5日、宇喜多秀家が京の豊国社で戦勝祈願を行ったという。同日、吉川広家が家康と合流するため出雲を出陣した。ところが、明石まで来ると、安国寺恵瓊の使者がやって来て、大坂城へ入るよう指示したのである。

 

 一方、島津義弘は、家康からの依頼を受け、城兵が少ない伏見城に入ろうとした。ところが、城代の鳥居元忠に、「何も聞いていない。」と言われて入城を断られてしまうのである。行き場を失った義弘は大坂へ下り、せめて秀頼のいる大坂城を守備しようと考えた。

 

 7月12日になると、石田正澄(三成・兄)が近江国愛知川に関所を設けて、東下する諸軍を阻止するようになる。また、同日、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行毛利輝元に「大坂の仕置きについて許可を得たいので急ぎ上洛下さい。」との書状を出している。さらに、大坂城下では「東軍」の人質収監が始まろうとしていたのであった。「西軍」の一連の動きは、無駄がなく、実に手際が良いのである。

 

 「卿(吉川広家)は、七月六日富田を発し、同十三日明石に到りしに、安国寺恵瓊の急使来り迎へて其上坂を促せしを以て、翌十四日急行大坂に着す、恵瓊即ち来り訪ひ、具に三成等の謀計を語り、既に使を発して輝元卿の上坂を懇請したれば、卿も亦此計画に参与して宗家と進退を共にせんことを勧説せり。」(「吉川広家卿伝」)

 

 恵瓊の調略を受けて、広家は熟慮したという。輝元家康はかつて兄弟の契りを結んでおり、大局的に考えても三成の陰謀に与することは、毛利家にとって決して得策ではないと判断した。

 広家は益田元祥、熊谷元直、宍戸元次らを広島に急行させ上坂を阻止しようとしたのであるが、輝元は7月13日には広島を出発していて、海路大阪に向かっていたのである。そこで広家は益田元祥らと謀り、榊原康政、本多正信に書状を発したのであった。

 

 

吉川広家