天海 (157)

 

 

 

 「卿(毛利輝元)は去年閏三月に家康と兄弟の契約を結ばれて以来親交の間柄にあり、且つ景勝が五年寄の申合に背いて在国したまま、大坂城出仕を肯ぜざるは秀頼を疎略にするものなりとて家康援助に決せられた。そこで広家卿を主将、恵瓊を副将として毛利軍を会津征伐に参加せしめることとし、(一斎留書)。十四日に在坂中の恵瓊に、「今度の関東下向は大儀・辛労、なかなか言語に及ばざる所である。これも皆毛利家の為を思はれるが故で感じ入った次第である。めでたく帰陣せられを待つ」と申遺り、銀子三百枚を贈ってその労をねぎらはれた。」(「毛利輝元卿伝」)

 

 さて毛利家の内情は複雑で、どこから話して良いものか困る。その原因のひとつは元就の子沢山である。元就は男子だけで9人の子がいて、他にご落胤もいるというのだ。

 嫡男の隆元は家督を譲られると間もなく死去する。幼くして家督を継いだ輝元には中々、男子が出来なかった。そこで弱体化した本家を守るため、正室の子である元春隆景が両川として宗家を補佐したのであった。

 天正12年(1584年)、輝元に実子がいなかったため、元就四男・穂井田元清の次男・宮松丸が養子となった。天正20年(1592年)4月11日、宮松丸は肥前国名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った秀吉と面会し、輝元の正式な継嗣と認められ、豊臣姓と偏諱の秀の字を与えられて、毛利秀元となったのである。文禄4年(1595年)には秀吉の養女である豊臣秀長の娘と結婚した。

 

 秀元は文禄の役で、輝元とともに朝鮮に渡海し、晋州城を攻略した。また、慶長の役では、病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となり、黄石山城等を陥落させるなど活躍したのである。

 ところが、文禄4年に輝元に実子である松寿丸が生まれたため、秀元は毛利家の継嗣を辞退したのであった。

 このような事情から、慶長4年(1599年)には、独立大名として別家を創設し、長門国周防国吉敷郡で、合計約18万石を分知されたのである。

 また、小早川家隆景の代から独立大名として扱われ、高禄を得ていた。しかし、隆景死後は養子の秀秋が家督を継ぎ、毛利家から離れたのである。

 吉川家では元春の隠居後、元長が継いだが、天正14年(1586年)11月に元春、翌年6月に元長が相次いで死去したため、三男・広家が吉川氏の家督を相続した。広家もまた朝鮮の役で活躍し、秀元と共に毛利家を支える人物として期待されていたのである。

 

 さて、慶長2年(1597年)隆景が死ぬと、独立大名となる秀元の所領配分が問題となった。取次役となった三成の所領配分案に家中は大反発した。その後、秀吉が死去し、三成が失脚すると、この所領問題に家康が介入したのである。

 家康は秀元長門国等を与え、広家には出雲・伯耆等の旧領(14万石)を安堵したのである。

 

 結果的に輝元は、当主の権限である家中の所領配分を実施できなかった。当主として毛利家中をうまくまとめられなかったことに屈辱感を感じていたのである。また広家も当初の三成案に強く反発していて、三成に対して深い遺恨を残した。

 

 一族衆ではないが、毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊も秀吉に重用され、事実上、独立大名として扱われていた。

 輝元の周囲には、このような有力者が多数いて、なかなかリーダーシップが取れなかったのである。それでも輝元は五大老の一人として、密かに天下に野心を持っていたのであった。