天海 (156)

 

 

 

【関ケ原前夜】

 

 

 江戸城に入ると、今度は秀忠が、能や酒食で諸大名を持て成したのである。その緩慢な動きに諸大名も訝しく思い、大戦を前にこのようなことでは良くないと口々に言った。この時、江戸にいた諸大名は、伊達政宗、結城秀康、福島正則、黒田長政、池田輝政などである。

 

 「どうなされました。そろそろお話下されてもよろしいのではないでしょうか。」と正信が言うと、

 「お前も上方の情勢を探っているのであろう。」と家康は言う。

 すると、正信は、我が意を得たり、と笑みを浮かべて、

 「やはりそうでしたか。上方の情勢を考えると、この際、会津征伐は二の次です。恵瓊三成のもとにいるようです。これは大きな魚が釣れるかもしれません。」というのだ。

 正信は上方大名の動きを察知していて、一部の大名が謀叛を起こす気配があると気付いていた。

 「中心は恵瓊三奉行、三成でしょうか。一番熱心なのは恵瓊でしょう。三奉行がどう動くか、まだ分かりません。」と正信は言う。

 「奉行衆は保身が第一だから、恵瓊の野心に容易に応じんであろう。輝元には野心があるが、家中がそれに従うとは思えん。秀家大坂の騒動で半数が家を離れたため、戦どころではあるまい。仮に謀叛があったとしても小規模なものであろう。」と家康は正信の見方に懐疑的である。

 「秀家には大量に牢人衆を抱え込んだとの噂があります。上杉は自分から討って出ることはないでしょうから、まずは上方の情勢を見極める必要があります。」と正信は締めくくった。

 

 毛利元就の正室には隆元、吉川元春、小早川隆景の三人の男子がいた。有名な「三本の矢」の三兄弟である。これを「毛利の両川体制」という。元就は隠居後に、家督を隆元に譲るが、永禄6年(1563年)8月4日に食中毒で隆元は急死するのである。まだ41歳であった。元就は何とも釈然とせず、毒殺を疑ったという。

 

 元就の嫡孫・輝元は、11歳で家督を継承し、祖父と二人の叔父に育てられた。元就死後、輝元は二人の叔父と共に西国の覇者として、織田家に対抗したのである。やがて本能寺の変が起きると秀吉と同盟して、豊臣政権では120万石を領する大大名となり、秀吉晩年には五大老に列したのであった。

 

 吉川元春は本能寺の変の際、秀吉を追撃することを主張したとされる。秀吉に仕えることに反発した元春は、家督を嫡男・元長に譲ると隠居したのであった。

 一方、小早川隆景安国寺恵瓊を通じ、秀吉と和平工作をして、豊臣政権でも重きをなした。四国征伐では伊予一国を拝領し、(建前は毛利家から小早川家へ)、事実上、独立大名として扱われた。

 天正14年(1586年)の九州征伐では輝元、隆景の説得で隠居の元春も出陣した。しかし、11月15日、元春は豊前小倉城で、病のため息を引き取ったのである。享年は57歳であった。

 

 その後、隆景は小田原征伐、朝鮮の役でも活躍し、ついに五大老に列し、本家の輝元と肩を並べるようになったのである。

 隆景は本家の血統を守るため、羽柴秀俊(秀秋)を養子に迎えた。そして慶長2年(1597年)6月12日、享年65歳で死去したのである。

 こうして長年、毛利家を守り続けた二人の叔父が亡くなり、いよいよ、輝元の時代が来たのであった。

 

 

吉川元春