天海 (155)
6月23日、家康は掛川に入った。家康の旗本として随行していた利景は、ふいに家康に呼ばれたのである。
「勘右衛門、天海上人に具足を用意しろ。」と家康は言う。
「上人は、僧侶でございますぞ。」と利景が言うと、
「だからどうした。僧侶が鎧を着てはいかんのか。オレは側室にも鎧を着せるぞ。この度は徳川家が総力を挙げて戦うのだ。この際、天海にも戦場に来てもらう。銭ならオレが出してもいい。立派な当世具足にしろ。」というのだ。
利景は「御意。」と言って引き下がったものの、「本気かよ。」と訝しんだ。
「先々御兵糧、山道は従前々至亥年不作仕、殊更一両年飢餓仕由に候。野兵糧之事如何御座候はんや、又雪前働も詰り可申哉、旁、来春被成御出馬候やうに奉存候事」(「三奉行三中老による諫止」慶長五年五月七日)
家康との喧嘩を買った景勝・兼続であったが、領内の実情は深刻であった。特に東山道はここ数年、凶作が続き、飢餓が発生していたという。上杉家は会津入封間もなく、領民との信頼関係も越後のようにはいかないのである。
このような上杉家の本音ともいえる悲壮な文書が残っている。
「この度上洛できなかったのは第一に家中が無力であり、第二に領内仕置きのため、秋まで待ってくれと言ったのに、逆心ありと告げ口をされ、上洛しなければこちらへ軍を出すという事態になった。
しかし、もともと逆心はないので、再度上洛を試みたが、讒言究明を要求したところ、相手にもされず、唯々上洛せよという。
このように追い詰められては、到底上洛などできない。起請文も反故にされているではないか。
この思いを理解できるものはお供をしろ。理解できない者は家中から去るがいい。上方軍が到着する日が分かったら、途中でこれを迎え撃つ。」(「越後文書宝翰集」)
景勝にドラマのような勇ましさはない。本当は戦いたくないのだが、奉行(内府)が無理難題を言って追い詰めるからこのような次第になった、と言っているのである。家中からも讒言が出たのは致命的であった。ここからも三成と共謀して家康を誘き出した、という説は成り立たない。
この戦いは家康が望んだものである。ところがここにきて、家康は変調をきたす。自らから望んだ会津征伐なのに、その足取りは遅々として進まなくなるのである。近江では「先を急いでいる。」はずだったのに、この頃から、まるで物見遊山の如くなる。
6月22日、掛川城で、山内一豊の接待を受け、翌23日には駿府城で中村一氏を見舞っている。(一氏は7月17日に病死する。)
6月24日、家康は三島に入った。そして沼津まで来ると、一足先に江戸に戻っていた正信と大久保忠隣がお迎えに来たのである。のんびりした様子の家康を見て、
「どうなさいました。」と正信が少し驚いて尋ねた。
「うむ、久方ぶりのお国入りだ。江戸でゆっくりしようと思ってな。」と家康は欠伸をしながら笑うのだ。
「しかしながら、あまりごゆっくりなさいますと、戦が終わらぬうちに会津は雪になりますぞ。」と忠隣も訝しむ。
それでも「せっかく大名衆も集まっておるのだし、江戸に入ったら皆を饗応せねばなるまい。」と言うのである。
その後、25日は小田原、26日には藤沢、27日から28日には大名衆と鎌倉見物、29日に神奈川に到着した。江戸城西の丸へ到着したのは、なんと7月朔日であった。