天海 (153)

 

 

 「六月十日、陸奥会津ノ上杉景勝、徳川家康ノ出陣セントスルヲ聞キ、部下将士ヲ訓シ、去就ヲ決シム。」(「史料綜覧」)

 

 直江状の真贋はともかく、景勝は上洛も再度検討していたようである。ただ、条件として讒言をした者(堀秀治・直政ら)の取り調べを要求したが、家康に無視され、遂に決戦やむなしとなったのである。

 さて、当時上杉家は120万石であるから、120万石×300人で36,000人の動員が可能と思われる。さらに防衛戦であるから全体で5万人弱の配置が可能であったことだろう。また上杉家は佐渡の金山を持っていて、多くの牢人衆の雇い入れる財力もあった。このように考えると上杉家の最大兵力は6万人程であったろう。

 

 また佐竹義宣は以前から三成と昵懇で、七将襲撃事件では三成の脱出を助けている。このため、会津征伐にも応じているものの、消極的で家康から疑いの目を向けられていたようである。常陸国佐竹家は54万7千石という所領で1万2千~5千の兵力を動員できたのであった。

 

 「十七日に千畳敷櫓の奥座敷へ御出になられ、ご機嫌よく四方を眺めて座敷に立たれ、にこやかにお笑いになる。鳥居元忠はその座にいたが、始めはご覧にならず、お座敷を立ち回られて元忠をご覧になり、立たせられ御意として、"この城は太閤が日本の人々を集めて石積みになられた。不測の事が起きて、鉄砲の玉に事欠くことがあれば、本丸天守に金銀が入れ置いてあるので取り出し、玉として鋳て撃たれよ" とのお考えだった。そのまま奥へ入られた。」「(慶長年中卜斎記)」

 

 6月18日、家康伏見城を出立した。大津城では京極高次が饗応し、翌日には長束正家が水口城で接待を申し出たが、「急いでいる。」と言って素通りしたというのだ。正家は仰天して土山まで御供したという。6月21日には三河国吉田城池田輝政浜松城堀尾忠氏の接待を受けた。

 

 天海利景もこの遠征に同行していた。すると突然、浜松城天海家康の呼び出しを受けたのである。

 「このところ接待漬けで、ふいに信長公との道中を思い出したのだ。少し話し合い手になれ。あの時はお前や庄兵衛は領内で怪しい動きをしておったな。」と家康は笑いながら言う。

 「はい、間者を使い隈なく領内を調べました。」と天海は応じた。

 「信長はどのような侵攻計画を立てていたのだ。」と問うと、

 「吉田城、浜松城を囲み、兵を西に誘き出し、北の信濃・甲斐から南下し、領国を分断する計画でした。」と天海は答えた。

 「何故、実行しなかった。」と重ねて問うと、

 「我が主、日向守吉田城、浜松城は大軍でも容易に落とせず、長期籠城戦になる。甲斐信濃は征服間もなく、織田家に恨みを持つ者が多くいる。徳川は武田家臣を匿っているので、必ず扇動し一揆が起きるであろう。そうなると侵攻どころではないと申しました。事実、本能寺の後、甲斐では一揆が続発し、河尻が戦死しています。」と天海は答えた。

 

 すると家康は腕を組んで考え出した。

 「なぁ、天海。オレはここまで想定通り、思い通りに事を進めてきた。どこにも瑕疵はないと思っているのだが、どうにも胸騒ぎがする。話がうますぎるのだ。これは理屈ではない。長年、戦乱を生き続けた勘が、このままでは危ないと言っているのだ。これは何であろうか。」と家康は言い出したのである。

 

鳥居元忠