天海 (152)

 

 

 

 「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、

 徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)

 

 直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたのである。

 会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられ、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられたのである。

 

 「五月七日、越前府中ノ堀尾吉晴・讃岐高松ノ生駒近規・駿河府中ノ中村一氏・豊臣氏ノ奉行前田玄以・増田長盛・長束正家、徳川家康ニ陸奥会津出征ヲ止メンコト請フ。」(「史料綜覧」)

 

 家康の決断に豊臣家の奉行である前田玄以・増田長盛・長束正家及び三中老と言われていた堀尾吉晴・生駒近規・中村一氏が出征中止を求めたが、家康は拒絶した。

 この政治状況は三成が権力を振るっていた頃とは明らかに違う。政策の決定権は家康にあり、奉行と中老は中止を懇願する立場である。私はこの権力の背景には徳川家の軍事力があったと思うのである。

 私的婚姻で利家と対立した時、家康は関東から部隊を上洛させている。以降、その武力は増強され、この頃になると、上方は徳川とその与力大名によって、事実上軍事占領されていたのである。毛利家前田家宇喜多家が対抗して兵力を上洛させれば、戦闘になることは間違いなく、戦争をする覚悟が必要であったのだ。

 

 「六月二日、徳川家康、関東ノ諸将ニ陸奥会津出征ノ期日ヲ告ゲ、其軍備ヲ警シム、

 六月六日、徳川家康、諸将ヲ大坂城西丸ニ会シテ、陸奥会津ヘノ進路ヲ議シ、家康・秀忠父子ハ白川口ニ向ヒ、常陸水戸ノ佐竹義宣ハ、仙道口ヨリ、伊達政宗ハ伊達・信夫口ヨリ、出羽山形ノ最上義光ハ、米沢口ヨリ、加賀金沢ノ前田利長ハ、越後津川口ヨリト定ム。」(「史料綜覧」)

 

 6月2日、家康は関東諸将に陣触れを発し会津征伐の期日を告げた。さらに、6月6日には会津征伐の評定が大坂城西ノ丸で開かれたのである。

 征伐軍は、白河口、仙道口、信夫口、米沢口、津川口の5方面から攻め込むことを定めた。後陽成天皇から晒布100反が下賜され、秀頼から黄金2万両と米2万石が下賜された。この時点で、家康率いる征伐軍は官軍となり、上杉軍は賊軍となったのである。

 6月8日、この時まで京都伏見にいた毛利輝元は、「暇乞二参、国へ御下也、大祈進物」(「北野社家」)とあり、国元の広島に帰ったようである。これが会津征伐に呼応したものであるか、西軍決起を謀ったものであるかは不明である。