天海 (146)

 

 

【会津征伐】

 

 

 「是ヨリ先、出羽仙北郡ノ戸澤政盛、密ニ陸奥會津ノ上杉景勝ノ動静ヲ徳川家康ニ報ズ。是日、家康之ニ答フ。」(「史料綜覧」慶長四年十一月)

 

 慶長4年(1599年)8月22日、上杉景勝会津に帰国する。景勝は会津移封、間もない事もあり、領内の整備に努め、山道を切り開き、橋梁を修築し、支城の整備を行ったのである。これを戸沢政盛、堀直政、最上義光など周囲の諸大名は脅威と感じ相次いで家康に報告したのであった。

 これを受けて家康は戸沢政盛に「お陰で会津の様子が分かった。詳しい内容は田中清六(京の鷹商)に申し伝えた。」と返書を出している。 

 

 「十一月廿八日、信濃浅野山鳴動ス。廿九日、京都大雪。

  十二月一日、日食。」(「史料綜覧」慶長四年)

 「正月一日、豊臣秀頼、諸大名ノ参賀ヲ大坂城ニ受ク、又諸大名、同城西丸ニ至リ、徳川家康ニ歳首ヲ賀ス。」(「史料綜覧」慶長五年)

 

 慶長4年末に天変地異があり、人々を不安にさせた。

 慶長5年(1600年)、正月、諸大名は秀頼に対する歳首の祝いの為、大坂城に参集した。そして大名衆は西ノ丸の家康にも年頭の挨拶に来たのである。家康は当然のごとく、これを饗応したのであった。

 この月、家康は、家臣・小笠原秀政の娘を養女として蜂須賀家政の長子・豊雄に嫁がせた。既に伊達政宗の長女と家康の六男・松平忠輝、また松平康元(家康の甥)の娘福島正之(正則の養子)を縁組させている。利家と交わした誓書も事実上反故となり、これを面と向かって諫める者もいなくなったのである。

 

 大老・前田家は家康に屈し、宇喜多家はお家騒動で家康の介入を受けた。奉行の三成浅野長政蟄居している。毛利家は、当主の輝元には野心があるようだが、家中はバラバラである。前田玄以京都所司代の仕事に徹していて家康にも従順である。増田長盛蝙蝠のような男で自らの保身に余念がない。

 

 「正家は、元と丹羽長秀の臣なりしが、算勘に達し、其外兵術を得たること、世に隠れなし。之に依り自他の国人共集まり、其術を稽古する故に、彼家常に市を為せり。」(「名将言行録」)

 

 分かりにくいのが長束正家であろう。正家の正室忠勝の妹であるので、本来なら徳川家と結びつきが強いはずなのだ。

 「二人とも変わり者なので反りが合わないのであろう。」と家康は思う。

 

 「小田原の役、正家数万石の兵糧運漕、又兵具器械まで定めの日限まで運送し、諸軍少しも差支えなし、秀吉大いに之を感ぜり。(中略)家康歎じて、正家蕭何の才あり、太閤能く人を用ひ給ひしと言われけり。」(「名将言行録」)

 

 蕭何とは言わずと知れた高祖三傑のひとりである。家康は正家の活躍を見て、江戸に入るや、総代官として伊奈忠次を抜擢したのである。ただ、正家にはこれと言った武功はない。彼はあくまでも後方支援であり、大将の器ではないのだ。

 

 「となると、結局は会津か。」と家康は思う。

 上杉家単独であれば、さして怖い相手ではないが、火種はできるだけ小さい方が良いのだ。

 

会津若松城