天海 (144)

 

 

 

 「天正五年正月八日(前略)話次、中村次郎兵衛去五日夜 相果ト云々。此故ハ此比備前中納言殿長男衆を背テ恣之故ト云々。主者牢人也。定而中納言殿以前不苦之間。形少エ可出ト云々。備前ニハ不白與了松下人一両人メ留守ヲスルト云々。上下七十人ホト之者共。一時ニ聴此事分散。絶言語。亥刻ニ頓退出。予亦就睡。」(「鹿苑日録」) 

 

 こうして大坂城下で両者は一触即発となったのである。この事態に大谷吉継榊原康政が調停に入った。しかし調停は長引き康政は伏見在番の任期を超過してしまったのである。これが家康の逆鱗に触れた。

 

 「こらぁ、小平太、お前はいつから奉行になった。世話焼きも大概にしないと、国元が疎かになっては、元も子もないであろう。」と家康は怒ったのである。すでに50歳を超えた康政が家康に叱られるのは珍しいことである。康政は恐縮して、そそくさと江戸に戻っていった。

 

 康政が退室すると、忠勝家康に苦言を呈した。

 「小平太は何も怠惰で遅延したわけではないでしょう。宇喜多家に恩を売るのも大切な仕事でございます。あそこまで𠮟ることではありますまい。」

 「そんなことは分かっておる。ただな、平八郎、徳川は大きくなったのだ。小平太は、もう皆が見上げる憧れの存在なのだ。小平太が範を示さねば、下々がそれを真似る。それは困るのだ。」と家康は仏頂面で言う。

 「では、その後の始末はどうなさいますか。」と忠勝に問われ、

 「おお、分かったオレがやる。」と家康は言ったのである。

 

 忠勝はそれ以上何も言わず、静かに退室した。最近は文官ばかりが重用され、忠勝ら武闘派は中枢から外されつつあるのだ。江戸表でも大久保党が幅を利かせていて、特に大久保長安が総奉行の立場で暗躍していた。

 「オレもあともうひと仕事かな。」と忠勝は思う。年齢的にも次の戦が最期の奉公になるかも知れぬと思うのだ。

 

 「どこに行っていた。」と家康は不機嫌そうに正信に問うと、

 「私は平八郎殿には嫌われておりますので、なるべく顔を合わせぬようにしております。」と正信は言うのだ。

 「若い頃ならいざ知らず、まだそんなことを言っているのか。」と家康はあきれた。

 「いえ、仕事は二人ともきっちり行いますが、それでも反りが合わないものはどうにもなりません。」と正信は言う。

 

 この騒動は結局、家康が裁断することになった。戸川らは蟄居処分となり、花房正成は宇喜多家を出奔した。秀家は直家以来の優秀な家臣団や一門衆を失ったのである。

 

 宇喜多家は朝鮮軍役負担のため過酷な領国検地を行ったという。その家臣団は兵農未分離の状態にあった中小領主層によって構成されていた。このため、検地やそれに伴う重税には武士階層にも強い反発があったのである。宇喜多家騒動の背景にはこうした重税政策への抵抗もあったのだ。

 騒動の当事者であった戸川達安・宇喜多詮家・花房正成・岡貞綱らは、この後、徳川家に仕官しているのである。

 

 

本多忠勝