天海 (143)

 

 

 

 「そこで忠興公は『5人の側室を持つ。』と言い出し、珠子様に辛く接するようになったという。珠子様は離婚をしようとしたのだが、基督教では離婚を堅く禁じていたそうだ。

 忠興公は、選りによってお倫様の侍女であったお藤という娘を側室にしたというのだ。」

 「あの、お藤か。」と天海は驚いた。お藤は本能寺の変の後、倫子のもとを離れ、細川家に仕えていたのだ。姉の侍女だった女に手を出すとは、当てつけなのであろう。

 「それだけではない。身寄りのなくなった次右衛門の娘・小也を珠子様は大切に育てていたのだが、これも自分の側室にしたのだ。」と言うと、さすがに庄兵衛は渋面を作った。次右衛門とは明智光忠のことである。つまり小也珠子の「はとこ」である。小也は教養も気品も高く、容姿も美しくて、どことなく珠子に似ていたのだ。

 

 「なんだ、側室といって、わざわざ珠子様の身近な女性に手をつけたって訳か。」と利景も気分が悪そうに言った。この時代、正室の権限は大きく、本来はその意思を尊重しなければならないものだ。当てつけにしても残酷な仕打ちである。

 天海は困惑した。細川家は明智一族にとって最大のスポンサーであり、関係を拗らせたくないのだ。しかし、今の話を聞くに、二人の関係は修復しがたいところまで来ているようだった。

 

 「是秋、備前岡山ノ宇喜多秀家ノ家臣中村刑部、専恣ナルニ依リ、老臣戸川達安・宇喜多成政等、刑部ヲ誅センコトヲ請フ、秀家聴カズシテ、達安等ヲ囚ヘントス、大谷吉継、家康家臣榊原康政ト議リ、調停ス、家康、康政ノ他事與ルヲ責ム。」(「史料綜覧」)

 

 秀家朝鮮の役から戻ると宇喜多家中は激しく対立していた。事の起こりは秀家正室の病を日蓮宗僧侶が治せなかったためだった。怒った秀家は家臣に日蓮宗から改宗するよう命じたのである。

 

 長船綱直は、この命令を幸いとして多くの士民を切支丹に改宗させた。しかし、戸川達安、浮田左京、岡貞綱、花房正成など日蓮宗を改めない者も多かった。もともと、存在していた官僚派(切支丹)武将派(日蓮宗徒)の軋轢は、こうして宗教的対立も伴ったのである。

 花房職秀はこの事態を秀家に諫言したため幽閉され、切腹を迫られた。しかし、これに三成が介入し、職秀は一旦関白預かりとなった後、佐竹氏に預けられた。その間にも宇喜多家中の内紛は激しさを増し、さらに切支丹派の長船綱直が毒殺されたのである。

 

 「其人々には戸川肥後守・浮田左京亮・岡越前守・花房志摩守・同弥左衛門・戸川玄蕃・同又左衛門・角南隼人・楢村監物・中吉与兵衛等其勢二百五十余人、雑兵までは夥しく、玉造の表裏の門を堅め討手を待ち、皆髪を切て討死を極む。」(「備前軍記」)

 

 その後も、長船派中村次郎兵衛浮田太郎右衛門が重用されたため、戸川達安ら6人は、官僚派の用人を斬り捨て、大坂の秀家に中村らを処断するように求めた。これに秀家は激怒して、達安ら武将派を殺害しようとしたのである。武将派に同情的な秀家の従兄弟である宇喜多詮家は、武将派と共に大坂玉造屋敷250余名で立て籠もったのであった。

 

坂崎 直盛( 宇喜多 詮家)