天海 (142)

 

 

 

 こうして家康は、前田家を屈服させ、故利家の正室・芳春院を人質に取った。さらに細川忠興の長男・忠隆の妻が利長の姉であったため、三男・忠利を人質として江戸に送ったのである。浅野長政も武蔵国に蟄居した上で、三男・長重を人質に出した。

 家康は秀吉の遺言で伏見在城を命じられていたにもかかわらず、高台院京都新城(太閤御所)に移し、自ら大坂城西ノ丸に入ったのである。

 

 家康はその後、忠興豊後国杵築6万石を加増し、城代として松井康之を置いた。康之とは本能寺の変の際、光秀の使者を追い返した、あの明智嫌いの康之である。中老として問責の使者を務めた堀尾吉晴越前国府中で5万石(隠居料)を与えた。また、森忠政を予てから切望していた兄の遺領・信濃国川中島13万石に転封し、対馬国の宗義智一万石を加増した。

 

 森家の旧領である東美濃田丸直昌の所領となった。森氏の与力であった妻木家は川中島には同行せず、妻木城に残り、田丸家の与力となったのである。森家に隷属させられていた妻木家にとって、事情を知らぬ新参者の田丸家の方が扱い易かった。また天海ら明智一族にとっても、忠政がいなくなって、仕事がやりやすくなったのである。

 このような加増転封は本来、大老・奉行の合意が必要であったが、家康は単独でこれを行ったのであった。家康はいよいよ牙をむいたのである。

 

 「迦羅奢は、遂に、その救いを見つけた。

信仰であった。―忠興の弟、興元も奉じているし、良人の友人である高槻の城主たる高山右近も入教している基督教であった。

 矢もたてもなく、彼女は新しい教義を求めて、大坂城下のセスペデスの教会堂へ通ったのである。―勿論、裏門表門に、警固の武士がいるので、忍んで出る苦心はなみたいていのものではなかった。いつも於霜の才覚で、被衣して召使の女に偽装したり、門番の合鍵を手に入れたりして、礼拝堂に通った。」(「細川ガラシャ夫人」吉川栄治)

 

 10月に入って、漸く天海は上洛した。正式に無量寿寺北院の住職となったせいか、いつになく威厳に満ちた神妙な顔つきである。遠山屋敷では利景、庄兵衛、為信が天海を出迎えたのであった。

 庄兵衛が目下の政局や稲葉正成との交渉などを話した後、重大な懸案を話し始めた。

 

 「実は、大坂に行ったおり、細川邸に立ち寄ったのだが、厳重に警備されていて、近づくことも儘ならぬ有様だった。それで色々調査をしてみたのだが、どうやら大変なことになっていたのだ。

 珠子様は本能寺のおりに、知っての通り謀叛人の娘として味土野に幽閉されたが、忠興公の愛情が余りに深く、幽閉中にもかかわらず子をなすなど、実態は有名無実であったという。その後、太閤の許しを得て大坂城下に戻ったのだが、珠子様は、心を病み、いつしか人目を忍び、基督教の教会に通うようになったそうだ。」と庄兵衛は言った。

 「耶蘇教とは。」と天海は呟いた。庄兵衛は頷くと、

 「その頃、バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興公は怒り、棄教させようとしたが、珠子様は頑としてきかず、ついに忠興公も黙認することになったのだ。」

 

細川ガラシャ

満江巌 著『細川ガラシャ夫人』,清水書房,1949.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/3004611 (参照 2024-04-05)