天海 (120)

 

 

【利家の最期】

 

 

 九州征伐の敗戦で、島津家は混乱を極めた。島津家は、もともと、一族衆国衆の力が強く、戦国大名に権力が集中していなかったのである。この弱点を稀有な戦闘能力を持つ4人の兄弟が補い、九州統一目前まで突き進んだのである。しかし、その後の敗戦により、島津家の求心力が一気に弱まり、一族・国衆が勝手なことを始めたのである。

 

 それでも島津家中では当主・義久の権威が高く、談合と呼ばれる老中の合議制によって、家中は辛うじてまとめられていたのだ。それに比べ弟の義弘の政権基盤は弱体であり、彼自身も権力闘争を苦手にしていたのである。

 

 一方、豊臣政権内では猛将・義弘の評価が高く、のらりくらりとした義久は全く信用されていなかった。このため、豊臣政権下の国持ち大名として認められ、従五位下侍従に叙任されたのは義弘の方であった。

 

 本来なら、ここで兄弟の下克上が起きるのであるが、義弘は義久に取って代わる気はなかった。三成をはじめ、政権側は義久を隠居させ、義弘が名実ともに島津家当主になるべきだと圧力をかけたが、義弘は頑なに頷かなかったのである。

 

 このような捻じれ現象は島津家を次第に危機に陥れた。大名権力の弱い島津家は京都伏見に大名屋敷さえ作れず、秀吉が課した朝鮮出兵の軍役も果たせなかったのだ。合議制と言えば聞こえはいいが、各老中は自分に利益を誘導するばかりで、島津家の行く末を慮る者などいなかったのである。

 

 文禄の役の際、義弘は自らの手勢23騎を率いて大隅国を出立し、いち早く名護屋城に至った。ところが待てど、暮らせど、本国から軍勢が到着しないのである。ついに遠征軍が朝鮮に渡河する段となっても、義弘には自前の船すらなかったのだ。

 義弘は書状に「龍伯様のおんため、御家のおんためと存し、身命を捨てて名護屋へ予定通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまった。無念千万である。」と書くほど、義弘は天下に面目を失ったのである。

 

 そればかりではなかった。朝鮮に出兵するはずだった梅北国兼は、参陣途中の肥後で朝鮮出兵に反対し、反乱を起こしたのである。反乱そのものは肥後国の加藤家相良家により鎮圧されたが、豊臣政権は義久に対して、拭い難い不信を抱くようになったのである。軍役が果たせなければ、改易、お国替えは必至である。義弘の危機感は容易ならざるものであった。

 また、この反乱に島津四兄弟(家久は既に死亡)のひとり歳久の家臣がいたことを豊臣政権は重大視し、義久に命じ歳久を切腹させたのである。

 

 義久に不信感を抱く豊臣政権は、細川幽斎を上使に任命して薩摩に派遣し、「薩摩御仕置」と称する行政改革を断行したのである。幽斎は権力基盤の弱い島津家のために、寺社・一族衆の土地を取り上げ、島津家蔵入地を増大させたのであった。この功績により幽斎は大隅国内に3千石を与えられたのである。家康はこの3千石を越前国に移し、島津家に旧領を返還したのであった。

 

島津義久と豊臣秀吉