天海 (119)

 

 

 慶長3年(1598年)11月25日、家康利家らは明水軍が日本軍の帰路を妨害しているとして、筑前国名島城にいた三成浅野長政に、高虎と協議するよう指示した。三成らは博多に待機していた高虎を呼び出すと、帰国する朝鮮諸将の護衛のため対馬海域に出撃することを命じたのである。

 

 高虎伊予水軍を率いて、またしても船上にいた。船の舳先に腰かけ、大海原を見ていたのである。今日の対馬海峡は、冬にしては穏やかであった。

 「殿、ここにおられましたか。」と声を掛けられ、振り向くと、そこには藤堂良勝がいた。良勝は藤堂家の重臣で、高虎の従兄弟に当たる。年齢は高虎より十歳も若い。

 「おお。新七か、どうした。」と問うと、

 「無事、小西摂津守様が釜山を出港したようです。」と良勝は言う。

 「そうか。」と言ったきり、高虎は何も言わないのだ。

 

 「我等も、ようやく伊予に戻れますな。」と良勝は言う。

 高虎はこの戦いの虚しさを誰よりも感じている一人である。

 「旧主・秀長さえ健在であれば、このような無意味な殺生は起きなかったであろう。」

 そんな思いが、今も消えないのだ。

 

 「李舜臣将軍は、やはりお亡くなりになったようですね。」と良勝が言うと、

 「あぁ、どうやら間違いないようだ。まったく、大将のくせに先鋒なんぞに出るから、こんなことになるのだ。」と高虎は忌々しげに言った。

 「そのような御仁を、私はもう一人、存じ上げております。」と良勝は、笑いながら言う。加藤嘉明に戒められた、鳴梁海戦のことを言っているのであろう。

 「だが、オレは生きている。それが大切なのだ。死んでは元も子もない。」と高虎は真顔で言ったのである。

 

 11月27日には、清正壱岐国に到着した。12月6日には島津義弘壱岐国に、10日には博多に到着している。誰に頼まれたわけでもないが、高虎の務めはようやく終わったのである。

 

 12月6日、家康は伏見の島津邸を訪問した。島津家当主・島津義久(龍伯)は、この時、京都にいたのである。

 当時の島津家には複雑な事情があった。島津家の当主は薩摩を領する義久であるが、弟の義弘大隅国の大半を領していて、国内では「両殿」と呼ばれていたのである。

 秀吉の九州征伐の折、島津家当主・義久が降伏しても、弟・義弘らはなかなか降伏しなかった。そこで秀吉は、島津家は薩摩一国のみ安堵で、大隅国は長曾我部元親に与えることにした。

 しかし、元親は、「大隅は遠国であるうえ、複雑な情勢のため統治に自信が持てない。」として丁重にお断りしたのである。

 その後も紆余曲折があり、結局、秀吉に恭順の意を示した義弘に大隅国が与えられたのであった。こうして島津家には二人の「殿」が生まれたのである。

 

 家康泗川城の戦いを「前代未聞の大勝利」と褒め称え、島津家に5万石加増を告げた。(正式には慶長4年1月9日発令)実は島津領内には細川幽斎の所領と三成が代官を務める蔵入地等があった。これらを島津家に返還させたのである。家康はこの機会に島津家に対する三成の影響力を排除しようと考えていたのであった。

 

島津義弘