天海 (112)

 

 

 

 

 「御両殿様泗川江在陣被成候処、朝鮮人・漢南人を催し弐拾万の勢を以押来。此泗川は三方ハ海、一方ハ入江の川ある所也。然バ、此川向ニは北郷加賀守殿・島津図書頭殿両大将にて、軍兵を備へ相待ける。」(「征韓録」)

 

 泗川新城西側は海に面していて、城郭の北側南側には海水の堀を巡らせていた。大手門のある東側には曲輪と空堀が交互に構築され、重厚な造りとなっていたのだ。泗川新城の遺跡を見ると、残存する石垣の奥右手に大門があり、恐らく大規模な内枡虎口であったと思われる。

 

 董一元は接収した泗川古城で評定を開き、10月1日早朝に総攻撃を開始することを決した。明軍は泗川新城の東側にある大手門小火器、大砲などで集中攻撃を実施した。島津軍の反撃は限定的であったので、やがて大手門は砲撃によって破壊され、火の手が上がったのである。

 この様子を見ていた島津忠恒は、

 「このままでは大手門が破られるので、私に出撃を許可してください。」と懇願したのである。

 しかし、義弘は「敵の隊列が乱れていないので、今は、まだその時ではない。」と申し出を退けたのであった。

 ついに大手門が破られ、盾を持った明軍の歩兵が城内に突入した。しかし大手門の中は広い枡虎口になっていた。明軍の突入を確認した義弘は、直ちに銃撃を下知した。枡虎口の中は三方を石垣と櫓で包囲されていて、突入した明軍は逃げる場所も隠れる場所もなく、三方からの銃撃を浴びて、次々倒れていった。当時の鉄砲は30m以内であれば鉄板も撃ち抜く威力があり、楯を持ち、鎧を着ていても防ぐことはできなかったのである。

 

 「敵軍の内ニに何とやしたりけん、塩焇壷に火が落入て余多ニ移り、鳴り渡ル事百千の雷のごとし。依て敵敗北の色見ゆる処、義弘様左之方より白糸威の鎧武者・赤糸威ノ鎧武者、二騎連てかけ入を、義弘様御覧じて、「時分は能きぞ。切クズセ」と被仰て、御両殿様ともに敵の中御馬を乗入給へバ、味方の軍兵我先と乱入、にげゆく敵の大勢を悉く切頽せバ、晋州の川際まで追クズシ切つめ、敵三万八千七百余の頸を取、得リ勝利給ふなり。」(同上)

 

 枡虎口で銃撃を受けた明軍は算を乱して逃げ出すと、それまで鳴りを潜めていた島津軍の鉄砲隊が明軍に対して一斉射撃を始めたのである。鉄砲隊の中には射程の長い大鉄砲もあったため、城門破壊のため城に接近していた仏狼機砲等も目標にされた。すると大砲の焔硝壺に弾丸が命中し、大爆発を起こしたのである。戦場は黒煙に包まれて、恐慌状態となった明軍は我先にと敗走し始めたのであった。

 「釣り野伏」を得意とする島津軍は予め城外に伏兵を配置していた。混乱する明軍にここぞとばかりに左右から伏兵が横槍を入れたのである。

 これを見て義弘は「今こそ討って出る時である。敵を切り崩すぞ。」と全軍突撃を下知したのであった。

 

 

安斎実 著『砲術 : その秘伝と達人』,雄山閣出版,1965.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/2507565 (参照 2024-03-11)