天海 (108)

 

 

 

 明知遠山隊美濃に入った。

 利景は慶長元年(1596年)、恵那に遠山一族の菩提寺として龍護寺を開山している。

 「父上が夢枕に立って、悲しそうにしていたのです。それで菩提寺を建てることにしたのです。」と利景はしんみりと言うのだ。 

 「そうか、オレのところにはさっぱり来ないなぁ。」と天海が言うと、

 「私は幼くして仏門に入ったので、人より父母を求める気持ちが強いのかも知れません。修行が辛くても、時折、訪ねてくれる父母をいつも心の支えにしていました。」と利景は言う。

 

 現在、龍護寺には、景行の墓のほか、利景以後の歴代十一基の墓、明知遠山氏の分家の子孫で、江戸町奉行を務めた景元の廟、家老職を世襲した串原遠山氏と永田氏の墓、遠山氏初代の加藤光員とその一族の墓がある。

 そして、龍護寺入口の右側に苔むした石塔があり、これが光秀の供養塔であると伝わる。また、寺宝として光秀の所有した直垂の布が縫い込まれた袈裟を所蔵している。明知遠山家と光秀の関係の深さが良く分かるであろう。

 

 近江を抜けると伏見の徳川邸から早馬が来た。

 「兄者、どう思われます。」と利景が尋ねる。天海が書状を読むと意外なことが書かれていた。

 「伏見の徳川屋敷ではなく、伏見の東に屋敷を建てたからそこに入れ、という事か。」と天海も首を傾げる。

 (わざわざ、屋敷を建てたというのか。)

 

 指定された屋敷は伏見城の東側にあり、思いのほか大きく立派な屋敷であった。しかも、表門にはご丁寧に『遠山民部少輔』の表札までかかっていたのである。

 周囲を見渡すと、すぐ隣には『加藤嘉明邸』や『松倉重政邸』、南に下ると『藤堂高虎邸』まである。何といたるところに大名屋敷が立ち並んでいるではないか。たかだか3千石の陪臣が住める場所ではない。

 

 「殿は何をお考えなのでしょうか。」と利景は冷や汗を掻いた。

 「ふうむ、なるほど。どうやら内府様は、ここで外交をなさるつもりのようだ。つまりここは、内府様の隠れ家で、密かに諸大名をお招きする場という訳だ。」と天海は頷いた。

 「なるほど、徳川屋敷は西に偏っているので、ここを東の出城にするおつもりか。」と利景は唸った。

 

 そうと分かれば、話が早い。利景はいち早く兵糧武具を蔵に仕舞い込むと、屋敷を清掃し始めた。いつ家康や諸大名が訪れても、恥ずかしくないよう、おもてなしに相応しい場所に磨き上げたのだ。

 

 さて、この屋敷の場所は、京都市立桃山東小学校の東側桃山学園の北側にあった。京都府伏見区には、桃山町遠山と呼ばれる地名がまだ残っている。当時の伏見城本丸から見ると1kmほど東である。

 周囲には錚々たる大名屋敷跡が地名として現在も残っているのだ。