天海 (106)

 

 

 8月19日、秀忠は伏見を発し、江戸に向かった。江戸に入れば直ちに武将を集め、いつでも上洛できるよう臨戦態勢をとる予定である。

 秀吉の死は朝鮮の役もあり、当面の間秘密とされた。しかし、早くから民衆の間に噂は広がっていたのである。

 8月25日、家康利家は、秀吉の死を秘したまま、徳永壽昌、宮木豊盛を朝鮮に派遣し、明と和して、軍を帰国させることを決定したのであった。

 8月28日には、家康五奉行の間で早くも内訌があったという。そこで輝元と五奉行の間で盟約を交わした。

 

 「敬白 起請文前書之事

 太閤様御他界以後、秀頼様へ吾等事無二ニ可致御奉公覚悟候、自然世上為何動乱之儀候「共、秀頼様御取立衆と」胸を合、表裏無別心可遂馳走候、太閤様被仰置候辻、自今以後不可有忘却候、各半、於于時悪やうに申成候共、無隔心、互ニ申あらハし、幾重も半よきやうに可申合候、若於此旨偽者、

        安芸中納言

 慶長三年八月廿八日 輝元」

 

 家康、利家毛利秀元、浅野長政、石田三成筑前博多に赴いた。朝鮮にいる日本軍を安全に帰国させるためである。

 

 一方、「太閤薨御」の知らせは早馬で江戸に伝えられた。

 

 その日、天海江戸城正信と関東の宗教政策について検討していた。世の乱れは寺院の秩序をも破壊していたのだ。早急に本寺を頂点に末寺に至る宗派による中央集権化を進める必要があった。

 「諸宗派により支配する末寺を記した末寺帳を提出させ、本寺の権限を強化すべきだろう。」というのが両者の一致した意見である。だが、それだけでは、何か足りないのである。そこへ、正信に緊急の知らせが入った。正信の慌しい所作を見て、天海は早々に退室したのであった。

 

 天海は、江戸城を後にすると、定宿にしている下谷の利景邸に向かった。すると、驚いたことに利景邸も大騒ぎであった。

 「兄者、大急ぎで支度をしてくれ。伏見の殿から急ぎ上洛せよと言ってきた。」と息を切らせて利景が言う。

 「何があった。」と天海が問うと、苦虫を嚙み潰したような顔で、

 「兄者にも、まだ言えん。」と利景は唸った。

 (まぁ、察しはつくがな。)と天海は思ったのである。

 

 「中納言(秀忠)様が急ぎ帰城される。入れ替わりに佐渡様が上洛する手筈だ。我らは一足先に上洛し、殿の護衛につく。兄者も同行せよとのことだ。手勢は50名程度だが、他に与力が付くかも知れぬ。方景は連れて行く、経景が留守居だ。」と利景は早口で言った。

 「さぁ、忙しくなるぞ。」というと、利景は力こぶを作ったのだ。天海は思わず微笑んだ。随分気合が入っているようである。

 

景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,

嘉永2-文久2(1849-1862)刊.

国立国会図書館デジタルコレクション

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1286680(参照 2024-03-05)