天海 (103)
【朝鮮撤兵】
『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』には、しばしば「年寄5人衆」という言葉が出てくる。普通に読めば、年寄なので「五大老」のことを言っているのだと思いがちだが、実は「五奉行」のことである。
だから、蔵入地の計算書を家康、利家に提出しろと言っているのだ。五奉行の横領を防ぐためであろう。つまり「年寄=大老」ではない。だから三成ら五奉行は自分達の方が格上だと主張したようである。
「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行と呼び、自分たちこそが年寄、おとな(老)だと主張。豊臣政権の家老は自分たちで、家康たちは役人にすぎないという意味を込めて、そういう言葉の使い方をしていた」(丸島和洋氏)
しかしながら、五奉行がそのように主張したとしても、「何ごとも家康、利家の同意を得て、その意見で物事を決めるように。」との一文がある以上、五大老の方が決裁権を持っていたのは明白である。
戦国の気風が残るこの時代に、五大老の軍事力は絶大で、五奉行を黙らせることくらい容易であったろう。もっとも、この覚書は、浅野長政が、秀吉の遺言を聞き取ったもので、それが「浅野家文書」によって伝えられたのである。このため浅野家に都合の悪い部分は、改竄されている可能性もある。
もともと縁者の少ない秀吉にとって秀次事件の影響は余りにも甚大であった。これにより信頼のおける縁者が誰もいなくなったのである。
家康は秀頼の義理の祖父であり、千姫はいわば人質であった。利家は幼馴染であり、その人柄に信頼が置けた。このため、この二人に対する期待は大きく、その嫡男と共にくどいほど秀頼の行く末を頼んでいる。こうして秀吉は臨終まで何度も誓紙を交わすことになる。
思えば弟の秀長が存命していれば、こんなに苦しまなくても良かったのであろう。また、一族衆の筆頭であった秀次と和解し、理解し合えれば、他人である二人に頼らなくても良かったであろう。しかし、どちらも詮無い事である。結局、頼れる縁者もないまま、ひたすら誓書を交わす他なかったのである。
西笑承兌によると「太閤は春以降、度々体調を崩されて、3月2日に腹を悪くされてから、食欲が減退している。」という。その後も体調は戻らず、有馬温泉に湯治に行くことも叶わなかった。
また「十六・七世紀イエズス会日本報告集」によると、5月後半には「太閤様は赤痢を患い、胃痛を訴えるようになった。」と記している。
以前に、私は秀吉の死因を「腎不全」と想定した。この頃、長期間にわたる体調不良の原因は、やはり慢性不完全尿閉ではあるまいか。
さらに、下痢、腹痛、手足激痛などは、免疫が低下しているところに、何らかの感染症にかかった可能性が高い。これは致命傷ではなかったようだ。ただ、感染症に罹患したことは、弱った腎臓に更に負担をかけたことは間違いない。
イエズス会と日本人