天海 (99)

 

 

 慶長3年(1958年)3月15日、京都醍醐寺に700本もの桜を移植し、醍醐の花見が行われた。諸大名の妻・女房衆等、女ばかり1300人を集めたというから、女好きの秀吉に相応しい人生最後の豪遊であった。

 

 家康は自ら薬草を煎じるなど、健康について人一倍気を配っていた。いつしか医学書なども読むようになり、医師顔負けの知識を持っていたという。家康は秀吉の病に早くから気付いていた。顔色が優れず、食欲の低下、頻尿、時に失禁が見られたというから、「これは腎虚であろう。」というのが家康の見立てであった。腎虚とは現代で言う「泌尿器科」の病である。

 

 高齢の男性にとって前立腺肥大症はありふれた病である。前立腺とは男性生殖器のひとつで高齢化とともに肥大化する傾向がある。早ければ30歳代から始まり、60歳男性であれば6割の人にその症状が現れるという。

 前立腺の肥大は尿道を圧迫し、排尿の困難をまねく。「尿の勢いが衰え」、「なかなか尿が出ない」、「尿が途切れる」等の症状が現れる。強い残尿感があり、頻尿を伴う事が多い。初期の秀吉の失禁は「切迫性尿失禁」だったと思われる。当時としては漢方薬しかなく、恐らく利尿の効果がある薬を飲んでいたのであろう。しかし、前立腺そのものは縮小しないので根治はしないのである。

 

 秀吉には健康管理を行う医師団がついていた。しかし、当代随一の名医と言われた曲直瀬玄朔秀次事件に連座し常陸に流罪となっていたのである。玄朔が許されて京に戻った時には、既に秀吉は助からない状態であった。

 玄朔が側にいても、恐らく治りはしなかったであろうが、これほど、急速な悪化は避けられたのではなかろうか。いわば自業自得である。

 

 さて、排尿障害が深化すると、腎臓に大きな負担がかかる。体力があるうちは筋肉で排尿を促すこともできるが、老化が進むと尿閉することもある。すると尿毒が体内に溜まることになるのだ。

 

 秀吉の場合、正確な死因は不明である。有力な説としては、①胃がん・大腸がん説、②赤痢説、③尿毒説、④梅毒説、⑤脚気説、⑥感冒説、⑦毒殺説などがある。消化器系のがんであれば血便が見られるが、そのような症状はない。また、梅毒は当時、大流行していて、多くの武将が感染している。しかし、淀殿や側室に感染があったとは聞いたことがない。脚気は江戸患いとも言い、白米ばかり食べていると、ビタミンB1が不足することから起きる病気である。しかし、秀吉は田舎飯が好きで、麦飯が好物だという。因みに毒殺説は、沈惟敬による毒殺だというから、荒唐無稽である。

 

 それで私は、前立腺肥大症が悪化し、腎不全を起こしたのではないか、と考えるのだ。慢性不完全尿閉の場合は,膀胱内圧が尿道圧を超えて尿漏れ,失禁の状態となる。そしてしばしば尿道に感染症を引き起こすのである。

 尿はやがて、膀胱から腎臓へ逆流し、尿の細菌が腎盂腎炎を発症させる。人工透析のない時代、腎臓が機能低下したら、もはや助からない。

 

 この頃、家康は、利家と共に秀吉に近習することが多かった。だから家康は、秀吉の余命が残り少ない事に気づいたのであろう。

 

 

 

曲直瀬玄朔