天海 (98)

 

 

 

 大広間での宴会が終わると、天海、庄兵衛、妻木貞徳の三人は別室で、今後の情勢について情報交換を始めた。

 慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において大掛かりな花見の宴を行っている。

 「選りにも選って、この時期に、太閤は大掛かりな花見を計画しているそうだ。4年前に実施した吉野の花見の再来だ。諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の整備に駆り出されて大騒ぎだという。」と庄兵衛は言った。

 「多くの諸将が異国で辛酸を嘗めている時期にいい気なものだな。表沙汰にはならないが、憤っているものは多いと聞く。」と貞徳は渋面を作る。

 「そうか、実はオレは、太閤の体調に異変があると聞いている。」と天海は言い出した。

 「え~。」と驚く二人に、

 「どうも様子がおかしいというのだ。顔色も悪く、政務がないときは、無気力でぼうっとしている。そして突然、怒りだしたりと、周囲が困っているらしい。それで憂さ晴らしに花見を計画したと聞く。」と天海は言う。

 「どこからそんな話が出てくるのだ。」と庄兵衛が驚くと、

 「しかし、まだ呆けるような年でもあるまい。」と貞徳も言う。

 「確か62歳であろう、オレたちとさほど変わらんはずだ。」と天海は庄兵衛に話しかけた。

 「うむ、それにしても為政者の健康は機密事項だ。そのような噂が出ていること自体、政権末期症状だな。」と庄兵衛はあきれて言った。

 「太閤が死ねば、天下は乱れる内府には腹を括ってもらわねばならぬぞ。」と貞徳が天海に言うと、

 「重々承知、腹を括らねばならぬのは、我等も同じよ。一人でも多くのものを味方に引き入れることだ。まず、そのような”状況”を作り出すことだな。」と天海は言った。

 

 「どうであろう、万が一、太閤が薨御された場合、天下は具体的にどのように動くであろうか。」と貞徳は尋ねた。

 「まず、秀頼淀殿では政事は動かせまい。実権は三成以下、奉行衆が握るであろう。しかし、専横が目に余る奉行衆とそれに不満を持つ武将との軋轢は深刻で、特に黒田長政、加藤清正、細川忠興、蜂須賀家政らは黙ってはおらぬはずだ。」と庄兵衛は言う。

 「豊臣政権の最大の弱点は、天下を支配する仕組みが出来ていないことだ。奉行衆だけでは徳川、前田、毛利、上杉などの大大名は抑えきれない。三成は後ろ盾として、前田毛利を味方に付けようとするであろう。誰しも徳川を警戒する。徳川が気を付けねばならないのは、孤立しないことだ。しかし誰を味方につけるかが、難しいな。」と天海は首を傾げた。

 「前田は太閤の恩義に篤く、諸将にも尊敬されている。毛利は信用が置けず軽薄で、三成に簡単に利用されるであろう。問題は会津の上杉だ。あの家は義に篤く、利では転ばない。一番厄介な相手だと思う。」と庄兵衛は言う。

 「そうなのか。」と貞徳は天海に尋ねた。

 「ああ、景勝公は筋を通すから、いざとなれば徹底的に戦うであろう。太閤もそれを知って会津に置いたのだ。

 仮に会津が蒲生ならば、内府が手懐けるのも容易であったが、上杉では手強い。徳川の背後を脅かす恐ろしい存在だ。

 そもそも石高は120万石であるが、佐渡に金山を持っていて、財政は実に豊かである。金で牢人衆を雇えば5万人は集められるであろう。

 ただ内府も、出羽の最上を手なずけているし、奥州の伊達とも手を組める。この二人で上杉を抑えてもらうしかあるまい。」と天海は分析した。