天海 (97)

 

 

  宴会が始まると、「伝蔵、こちらへ来い。」と庄兵衛が呼んだ。

 「おお、伍助、久しぶりであるな。」と天海がいうと、

 「天海様、ここでは伝蔵でお願いします。」と笑うのだ。

 「うむ、この男の本名は阿寺伝蔵という、れっきとした遠山一族だ。」と庄兵衛が言うと、

 「いえ、いえ、ほんの末流でございます。」と伝蔵は照れた。

 「こちらにおられる弥右衛門殿は、苗木遠山家の御一族であるそうだ。」と庄兵衛は、景利を紹介した。

 「さては、阿寺城にゆかりのかたでありまするか。」と景利が身を乗り出して尋ねると、

 「はい、私の父は遠山の庶流であり、阿寺城で乙名をしておりましたが、一族は岩村城で滅ぼされました。生き残った者も武士を捨て、帰農し、阿寺を名乗ったようです。」と伝蔵は言う。

 「これは奇縁ですな。某は苗木遠山家の庶流で、現在は館林で榊原家に仕えておりますが、元は遠山久兵衛様にお仕えしていて、その親父様が一時期、阿寺城におられました。確か弟君が跡を継がれたかと、その後は残念なことになりましたが…。」と言葉を濁したのである。

 

 二人は席を変え、遠山一族の話を始めた。かつて東濃土岐氏遠山氏により支配されていたが、今では遠山一族は四散し、土岐一族も妻木家が残るばかりである。

 「久兵衛様は今でも旧領復帰をあきらめてはいない。ただ、江戸内府様からは厚遇されているとは言いがたいのです。明知遠山家旗本に取り立てられ、知行もいただいており、随分差がついております。」と景利は嘆く。

 「あぁ、勘右衛門様は良く存じ上げています。」と伝蔵が言うと、景利は思い出したように

 「東濃の城主といえば、土岐一族小里家相模で500石だと聞きます。あそこもやり繰りが大変であろう。」というのだ。

 

 「ほお、小里は相模にいるのか。」と天海が話に割って入る。

 「小里様をご存知ですか、では勘右衛門様も御存じでしょうか。」と景利が言うので、周りの者は顔を見合わせ困惑した。

 「御存じも何も、勘右衛門は私の弟だ。だから、あれほど明知遠山家の出身だと言ったであろう。」と天海があきれて言うと、

 「お、弟君とは、一体あなた様はどなた様でしょう。そろそろ、お教えいただいてもよろしいかと思います。」と景利は困惑気味に尋ねた。

 

 天海は居住まいを正すと、

 「よいか、私は、明知遠山家の当主・遠山景行の長男として生まれ、元服と共に叔父である三宅長閑斎の養子となり、三宅弥平次となった。その後は明智家に仕え、各地を転戦し、主人である明智日向守の婿となったのだ。それで明智秀満と名乗ることになった。もっとも、世間一般では明智左馬助として知られているようだ。

 私は坂本城で死んだことになっている。ここにいる天海は、いわば左馬助の幽霊である。そしてこの屋敷に集うのは滅びたはずの明智一族だ。

 現在、私は川越北院で、江戸の内府様の庇護を受けている。どうだ、私の秘密が他言無用であること、分かってもらえたか。」と言ったのだ。

 

 景利は身震いすると「良く分かりました。決して口外いたしません。それにしても最近の幽霊には足があるのでございましょうか。」というのだ。

 この本気なのか冗談なのか分からないところが、景利の真骨頂である。

 「よいか、幽霊というのは比喩だ。本当は坂本城から尻尾を撒いて、船で逃げ出しただけよ。」というと、天海景利の肩を叩き、「お主は本当に面白いな。」と言ってゲラゲラ笑ったのである。

 

 

阿寺城跡