天海 (95)

 

 

 一時、関東に戻ると伝え、倫子に暫しの別れを告げると、

 「もう若くはないのですから、くれぐれもお体には気を付けてください。決してご無理をなさらぬように。」といい、倫子は堅く手を握った。

 天海は少し戸惑ったが、人はいつ、どこで、何があるのか、分からないものだと悟った。これが今生の別れではないと、誰が言えようか。

 天海は倫子の肩を優しく抱くと、「必ず戻る。」と囁いた。

 

 伏見城に戻ると、景利が準備万端整えて、すぐにでも出発しそうな勢いである。先導の景利天海が馬に乗り、轡を取る中間が二人荷物を運ぶ中間が二人、徒侍が一人、合計7名である。何とも仰々しく面映ゆいが、致し方あるまい。確かにこの方が道中安心である。

 

 どうやら、景利は生真面目を絵にかいたような男で、機転が効くとか、回転が速いとか言う印象はなかった。実は、このような男が戦場では勇敢なのだ。小手先の駆引きを嫌う、真っ向勝負の武士であろう。

 「榊原殿はこのような家臣が好きなのであろうな。」と思った。もともと康政は外連味がなく、真っ正直な忠勝と気が合い、裏表が多い正信が嫌いなのである。康政は忠勝と共に勇将として知られるが、実は本好きの知恵者でもある。そのためか、家康も何かと相談することが多い。

 

 「弥右衛門殿は遠山氏でありますな。」と天海が尋ねると、

 「はい、遠山家は東濃に多数ありまして、某は苗木と申す里の出身でございます。訳がありまして、今は榊原様のご扶持を頂いております。」と答える。

 どうやら何も知らないようだ。

 「実はな。」と言い、天海は家紋のついた印籠を出した。因みに印籠とは、薬等を入れて持ち歩くもので、黄門様の専売特許ではない。そこには「丸に二つ引き」紋が描かれていた。

 

 景利は目を丸くして、

 「これは、これは、天海上人様は足利御一門であられましたか。」と驚いたのである。

 天海は思わず馬から落ちそうになりながら、「違うであろう。」と言った。

 「よく見ろ、これはお前と同じ遠山の家紋だ。私は明知遠山家の出身だ。」と言うと、今度は景利が仰天して、「へえ~。」と言って目を丸くした。

 「偉いお坊様だと聞いたので、てっきり足利様かと思いました。」と言うのだ。

 

 「うむ、私にも色々事情があってな。まぁいい。どうせ美濃に入れば分かることだ。詳しい話は美濃に入ってからにしよう。但し、よいか、この道中で見聞いたことは、断じて他言無用だぞ。」と天海は脅しに掛かると、

 「あいや、そうは言われましても、うちの殿様には言わない訳にはいきません。内緒にはできません。」と困惑して言う。

 「うむ、それはもっともである。しかし安心せよ、このことは榊原殿は既に知っているから、大丈夫だ。」と天海が言うと、

 「そうですか。それは良かった。」と子供のように無邪気に喜ぶのである。その様子を見て天海は思わず笑い出した。すると、つられる様に景利も笑ったのである。

 同族と知ってから、景利とは急に和やかな雰囲気になった。どうやら、面白い道中になりそうである。