天海 (90)

 

 

 明軍は何とか慶州まで遁れたが、日本軍のさらなる追撃を恐れて漢城まで逃走した。飢えと恐怖で敗走した明軍は途中で暴徒と化し、行く先々で暴虐を尽くした。

 後に揚鎬万暦帝に対して「蔚山城加藤清正壊滅的な打撃を与えたが、兵馬が疲労し、日本軍の援軍も水陸から上陸してきたので撤退した。」との戦勝報告を行った。この報告を受けて万暦帝は「国威、大いに彰わした。」と賞賛したのである。

 ところが、軍内部から「戦死者が二万に及ぶ。」との報告が上がって来た。明軍の統括・邢玠の部下である丁応泰は、「楊鎬の戦勝は虚偽であり、経理・楊鎬提督・麻貴副総兵・李如梅らは多数の兵と武器を喪失した。」と上奏したのである。これにより万暦帝は激怒して、楊鎬を更迭したという。率直に言って、処刑されないだけ幸甚である。

 

 蔚山城攻防戦の後、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政ら13将は蔚山・順天・梁山の三城放棄する戦線縮小案を豊臣秀吉に上申した。これは前述したように日本の防衛ラインが東西に細長いため、西端の城と東端の城を放棄すべきだと主張したものであり、戦略上は充分な合理性があった。

 しかし、せっかく建立した城を、直ちに破却するのは余りにも経済的な損失が大きかったのである。ましてや蔚山城は秀吉が直々に建立を命じた城である。秀吉の不興を蒙り却下されたのも理解できるであろう。

 

 ①1月4日、秀吉に注進状

 「蔚山救援戦の勝利、大戦果の報告」(太田一正・加藤清正・浅野幸長)

 ②1月5日 秀吉に書状 

 「今後の善後策の談合結果報告」(朝鮮諸将)

 ③1月9日 秀吉に書状

 「蔚山・順天城の放棄検討。」(朝鮮諸将)

 ④1月11日 秀吉から朱印状(朝鮮諸将へ)

 「毛利輝元・増田長盛らの救援派遣を意向。」(後に取りやめ)

 ⑤1月22日 秀吉から朱印状 (朝鮮諸将へ)

 「蔚山城で多大な戦果を挙げたが、相手を壊滅できなかったことは残念である。本来なら帰朝できるところを在陣させたことは「辛労」であった。蔚山城には清正、西生浦城には毛利吉成、釜山浦には寺沢正成を置く。各城の普請、兵糧、弾薬が整えば各々帰朝せよ。」

 ⑥1月26日 秀吉に注進状 

 「蔚山城、梁山城、順天城、南海島を放棄。但し順天城・南海島の放棄については、在番の小西・宗が反対しているので、秀吉の決定に委ねたい。」

 ⑦3月13日 秀吉から朱印状 (朝鮮諸将へ)

 「蔚山城、梁山城、順天城の放棄は曲事である。ただし、梁山城の放棄だけは認める。立花宗茂らは固城毛利高成西生浦に在番させる。

 蔚山城の普請を整えず、まだ兵糧・弾薬を置かなかった時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受けた。明軍が撤退したのに、追撃を徹底せず、相手を壊滅させることができなかったことは残念である。その蔚山城を、秀吉の意向を確認せず放棄するとは、曲事である。

 来年は、軍勢を派遣して漢城を攻める予定である。その意をもって、兵糧・弾薬の備蓄を怠らず、在番するように。」