天海 (87)

 

 

 

 秀吉は西生浦城の在番将を清正から黒田長政に変更するように命じた。そして清正には新たに蔚山城の築城を命じたのである。蔚山城は、日本式城郭群の最東端に位置し、清正自らが縄張りをした。慶長2年(1597年)11月から毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の三軍を中心として築城を始めたのである。

 

 蔚山城は島山という50m程の小高い丘の上に城郭が築かれた。島山は蔚山湾の奥にあり、南には太和江が流れ、海に繋がっていたのである。清正は城下まで船を着岸できるようにした。

 「蔚山之御城出来仕目録」によると、本丸は頂上に築かれ、二の丸・三の丸を擁していた。「石垣全長が776間2尺(約1.4km)、が12棟、が351間2尺(約632m)、惣構塀が1430間(約2.6km)に及んだ。」とある。

 秀元と幸長らは昼夜を問わぬ突貫工事で、僅か40日で完成間近となったのである。ただ、冬の寒さと工事の過酷さで、凍死する者や脱走するものも多かったという。

 

 蔚山城建立の目途がつくと、毛利秀元は帰国の準備に入った。兵糧等を釜山に送り、兵を率いて釜山に向かって発出したのである。清正も長政との引継ぎのため西生浦城にいたので、蔚山城には浅野幸長太田一吉だけが在陣していた。

 

 蔚山城の城外には宍戸元続が警戒のため陣を布いていた。12月22日、明軍の先鋒である軽騎兵1000人が宍戸隊を襲撃した。明軍の南下を全く予期していなかった宍戸隊は忽ち苦戦に陥る。

 急報を受けた幸長・一吉はすぐに援軍に出た。援軍が来たことを知った明軍は偽装退却をして日本軍を釣り出した。そして追撃してきた日本軍を新手の明軍2千人とともに包囲したのである。

 幸長らは多大な被害を出しながらも、宍戸隊を救出し、包囲を突破して蔚山城総構えまで退却した。しかし、この戦いで一吉は負傷し、兵460名が戦死したという。

 

 蔚山城が襲撃されたと西生浦城で聞いた加藤清正は少数の側近と共に兵船に乗って蔚山に帰還した。蔚山城には船着き場が、総構えの内側にあったので、無事城内に入ることが出来た。こうして蔚山城の籠城戦が始まったのである。

 

 12月23日、明軍は総攻撃を開始して、蔚山城の総構えまで侵入した。蔚山城は未完成であったというが、それは主に総構えのことではなかったかと思う。事実、総構えは簡単に突破されたが、石垣が完成していたと思われる城郭部分は容易に落とせなかったのだ。

 日本軍は総構えから次第に退却し、日暮れには城郭に逃げ込んだのである。日本側の史料では660人余の戦死者が出たという。

 城内では本丸東側に太田一吉、南側に浅野幸長が陣取った。清正は本丸の西側から二ノ丸、三ノ丸を防禦した。加藤軍には毛利軍の残留部隊である宍戸元続らも従っていた。

 「朝鮮王朝実録」ではこの日の戦いで1,300人を斬ったといい、さらに焼死・溺死は数千に及ぶと書いている。負けた方は被害を少なく、勝った方は成果を多く書くのはいつものことではあるが、明・朝鮮側の記録では日本軍は半数以上が死傷したことになる。旧陸軍では損耗率50%程度を「全滅」として取り扱った。指揮系統も失われ、部隊としての機能は全損した状態である。

 日本軍はこの後も頑強に抵抗しているので、明・朝鮮側の記述は明らかに「過大で不正確」と言わざるを得ない。これでは史料として信用できないと思われても仕方がないであろう。