天海 (83)

 

 

 「敵がわざわざ、この狭い海峡に大船で乗り込むとは思えませんね。」と宋汝淙は言った。

 「うむ、賊は恐らく北に向かう潮流に乗り、多くの中船で攻めてくるだろう。我らは、それを板屋船で食い止める。ここは頻繁に潮目が変わるのだ。我らにこそ地の利がある。潮流が南に流れれば、その時にこそ早船を繰り出そう。」と李舜臣は言った。

 

 この時の様子を『豊臣水軍興亡史』(山内譲)は、豊後佐伯藩毛利家に伝わる注進状を紹介している。「大船は河口に残して小関船ばかりで出撃した。「水営」という所に番船・大船十四艘、その他小船が数百艘、布陣していた。十六日卯の刻から申の刻まで戦った。」(要旨)

 

 日本軍は足の早い関船で潮の流れに乗って攻撃を仕掛けてきた。これを見て多くの板屋船は逃げようとしたが、李舜臣だけは踏みとどまって火砲火矢で応戦した。これを見て、勇気づけられた僚船も引き返して日本軍と戦ったのである。日本水軍朝鮮水軍一進一退の戦況となった。

 「頑張れ、ここが山場だ。何れ潮目が変わる。」と李舜臣督戦した。そして、ついにその時は来た。潮目が変わり、南向きに潮流が流れたのだ。

 

 「今だ、早船を出せ。」と李舜臣は命じた。すると、後方に控えていた早船が一斉に戦場に雪崩れ込んできたのである。早船はほとんど武装をしていないが、漕ぎ手は地元の水夫であった。彼らは海峡の流れを熟知していたのである。

 

 「いかん、船を退くぞ。」と高虎は慌てた。潮流に乗って朝鮮水軍が押してきた。しかも、その背後から百艘余りの小型船が猛烈な勢いで突撃して来るのであった。先頭の関船が体当たりを受けて大きく傾いた。兵士らが海へ転落している。早船は関船に一撃を加えると、直ちに前線から離脱する。

 

 「そうか、そういう事か。」と高虎は呟くと、「全船退却、急げ。」と下知した。日本軍は総退却に入ったのである。

 軍目付・毛利高政の乗った関船も早船の直撃を受けた。その衝撃で高政は海中に落下したのである。高政は溺死寸前のところを藤堂軍の藤堂孫八郎に救出され、一命を取り留めたという。

 しかし最前線で戦っていた来島通総はこの戦いで戦死した。彼は有名な村上水軍の一族であり、父の代で来島城の城主となったことから、来島氏を名乗ったのである。

 通総戦死の報は,すぐに秀吉のもとに伝えられた。船手衆軍目付にあてて,「赤国の内水営浦において敵番船と戦って通総が戦死したことを不便(不憫か)に思召さる。」旨の朱印状が出されている。将級の戦死は珍しかったのである。

 

 この海戦は李舜臣の快勝となった。彼は「乱中日記」の中で30隻を撞破したと書いている。「撞破」とは船体をぶつけて相手船を破壊したという意味である。必ずしも撃沈したとは言っていないので注意する必要があるだろう。

 

 帰陣すると高虎自身も二か所を負傷していた。がっくりと肩を落とす高虎に、「遺恨があるからと言って、大将自ら出る必要はなかったのだ、やっぱり、オレが出れば良かった。」と嘉明は言う。

 「お前が出ていたら、とっくに死んでたろう。」と高虎が言い返すと、

 「さてな。」と言って肩をすぼめて嘉明は去っていった。

 「少しは、心配していたのかな。」と思うと高虎は苦笑いをした。本当に素直でない奴である。

 

来島通総