天海 (82)
左軍の秀家が南原城を落としたころ、右軍の毛利秀元も黄石山城を攻略した。両城陥落後、左軍、右軍は全州に集結して、今後の方針について協議したのである。その結果、清正や長政らの軍勢は、忠清道侵攻後、慶尚道に戻ること、秀家や義弘の軍勢は、忠清道侵攻後、全羅道の経略にあたること、船手衆は全羅道沿岸を制圧すること、などが決められた。その取り決めに従って高虎ら船手衆は、全羅道の南岸を海路西へ進むことになった。
一方、朝鮮水軍は水軍統制使に復帰した李舜臣が、碧波津で反攻の準備を整えていた。有難いことに鹿島万戸の宋汝淙が板屋船一艘で駆け付けてくれたのである。これで板屋船は13艘になった。
「小船でも良いから、まず数をそろえよう。」と李舜臣が言うと、
「小船ではとても日本の大船には歯が立ちません。」と宋汝淙が言う。
「いや、賊は数百艘、我らは13艘、これではすぐに包囲される。探索船のような小船でも良いから、足が速くて、包囲を突破できるような船が欲しいのだ。」と李舜臣が言うと、
「なるほど、小型で船足が早くて、敵船に体当たりできるような頑丈な船ですね。それでは漕ぎ手が上部から銃撃を受けぬよう、丈夫な屋根も付けましょう。それならある程度の数は集められると思います。」と宋汝淙が納得した。
船手衆の高虎、嘉明、安治、来島通総、菅達長と目付の毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける島津軍に呼応して、全羅道の南海岸沿いを西進した。
日本軍は9月7日に慶尚道西南の於蘭浦沖に到達した。碧波津の李舜臣は、迎え撃つため一度は出撃したが、深追いすることなく碧波津に帰った。
「賊船は300艘はいる。外洋では歯が立たないので、入江に追い込もう。」と李舜臣は考えたのである。
15日に李舜臣は右水営沖に移った。日本軍を珍島と花源半島との間にある鳴梁海峡に誘引しようとしたのである。ここは潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所であった。
「すいゑんと申所に番舟の大将分十三艘居申候,大川の瀬より早きしほの指引御座候所の内に少塩のやはらき候所に十三さうの舟居申候,それを見付,是非共取可申由舟手の衆と御相談に而,則御取懸被成候,大船にてそのせとをこぎくたし候儀は成ましきとて,いつれも関舟を御被成,御かかり候,先手の舟共は敵船にあひ,手負数多出来申候,中にも来島出雲守殿討死にて御座候,其外舟手の被召連候家老之者共も過半手負討死仕候」(「藤堂家覚書」)
日本軍は7,200人の兵員を330艘の船に分乗させていた。日本軍が珍島沖まで進撃すると北方に十数艘の板屋船を発見したのである。高虎は海峡の潮流が激しいことを懸念し、安宅船等の大型船は珍島の南に留置くことにした。
「余多の大船が狭い海峡に犇めき合うは敵の思う壺である。敵は少数なれば、ここは関船で攻めよう。」といった。
多くの諸将は賛同したが、嘉明は横を向いている。高虎は嘉明の能力を高く買っているのだが、このような子供じみた態度が許せないのである。
「関船130艘で海峡を渡る。先鋒はオレと出雲守(来島通総)で良いか。」と尋ねた。
「何も佐渡殿が行かずとも良いのではないですか。」と一同は驚いた。
すると高虎は「あいつ(李舜臣)には借りがるのさ。」と笑ったのである。
