天海 (81)

 

 

 

 「倭兵は南原府を陥れた。天将楊元走り還った、全羅兵使李福男、南原府使任鉉以下諸将皆戦死した。楊總兵は南京に到り、城を増築し、城外の軍馬墻には多くの炮穴を穿ち、城門には大炮三門を据え、深く塹壕を掘り、防備を厳にしたが、閑山既に敗れて賊水陸より殺到するの報道が頻々として来てるので城中の人民は逃散って、獨り總兵の率ゆる馬軍三千だけが城内にいた。」(「懲毖録」)

 

 この頃、日本軍陸上部隊慶尚道から全羅道制圧を目指し、両道の要衝にある南原城、黄石山城を攻略しようとしていた。南原城攻略を目指す左軍は総大将・宇喜多秀家以下56,800人、黄石山城攻略を目指す右軍は毛利秀元率いる64,000人であった。

 8月7日、巨勢島元均を討取った島津軍が南原城に向けて進軍、8日には漆川梁海戦で大きな勝利を収めた高虎らも、船を降りて南原城を目指して北上した。

 南原城は南に蟾津江(蓼川)が流れていた。明将・楊元はここを騎馬兵3千人で守っていた。日本軍接近を知ると、戦う意思のある僅かな住民だけが残り、大半は逃げ出したのである。楊元は方々に援軍を頼んだが、援けに来たのは李福男朝鮮兵2千人余りであった。

 

 8月12日、日本軍は南原城を包囲した。城南方面は、総大将として喜多秀家、藤堂高虎、太田一吉らが陣取り、城西方面は、小西行長、宗義智、脇坂安治、竹中重隆ら、城北方面は、加藤嘉明、島津義弘ら、城東方面は、蜂須賀家政、毛利吉成、生駒一正らが陣取ったのである。13日には行長が城将・楊元と降伏交渉を始めたが、楊元はこれに応じなかった。

 

 日本軍は少数の部隊を繰り出し、銃撃をくり返した。明軍にも勝字銃筒という原始的な銃があった。しかし命中精度が低く、反撃しても日本軍になかなか当たらなかったのである。この状況を見て、日本軍は鉄砲隊を増やし、次々と城兵を狙撃していった。城兵は壁から離れ、物陰から反撃した。

 次に日本軍は攻城戦用の櫓を組み、高所から鉄砲を撃ち掛けた。今度は、城兵は建物の陰に隠れ、頭上からの銃弾を避けたのである。こうして城兵を退けることに成功すると、日本軍は堀を埋め立て長梯子を掛けて城壁に取りついた。

 日本軍が城内に乱入すると落城は時間の問題となった。楊元は騎兵3千を率いて城門を開けると一気に日本軍に突撃をした。しかし、幾重にも包囲していた日本軍を突破するのは困難で、多くの騎兵はここで討ち取られたのである。結局、内にいた兵士5千人余は悉く討ち取られた。

 ところが、城将・楊元は僅かな家人に守られて、しぶとくも脱出に成功するのである。

 

 さて、この戦いで日本軍は残虐を極め、住民の婦女子を皆殺しにした、との記述が時折見られる。しかし、「懲毖録」にも書かれているように、住民は戦う意思のある者以外は皆逃げた。だから城内に婦女子がいるはずがないのである。

 ただ、南原城に至るまでに日本軍は方々の村で放火して、殺戮を行っている。また、日本軍は首級を上げる代わりに、鼻削ぎを行った。首を持ち帰るのが大変だったので、鼻で代用したのである。こうした行為が野蛮で残酷と見られたのであろう。

 

参謀本部 編『日本戦史』朝鮮役 (経過表・附表附図),

偕行社,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/936357 (参照 2024-02-09)