天海 (79)

 

 

 

 慶長2年(1597年)6月19日、元均率いる朝鮮水軍は、命じられるままに安骨浦加徳島の日本軍を襲撃した。しかし、この戦いで元均は日本水軍に敗北してしまうのである。しかも朝鮮水軍の幹部・安弘国までもが戦死したのであった。

 朝鮮水軍の目的は、明らかに対馬-釜山の補給線を断つことであった。そこで日本軍は朝鮮水軍を壊滅させるため、藤堂高虎(2,800人)、加藤嘉明(2,400人)、脇坂安治(1,200人)が釜山沖に集結したのである。日本水軍は総勢600艘余であったという。

 軍議は最大の兵力を持ち、嘉明より7歳年長の高虎が主導した。高虎は朝鮮水軍の弱点として、陸上兵力を持たないことを指摘し、日本軍は陸上部隊との共同作戦閑山島を制圧し、朝鮮水軍をせん滅する計画を立てた。これは秀吉の方針でもあり、嘉明安治も異存はなかったが、嘉明は高虎の大将然とした言動に腹を立てた。高虎嘉明の所領は同じ伊予国で国境を接していたのだ。行長、清正と同じで国境争いから、両者は不仲であった。

 

 7月7日、元均慶尚右水使・裵楔に命じて熊浦の日本水軍を襲撃させたが、またもや藤堂・加藤・脇坂軍の前に敗走した。疲労困憊した朝鮮水軍は給水のため加徳島に上陸したが、そこには立花直次、筑紫広門の陸上部隊が待ち構えていた。ここで朝鮮軍は400名もの死者を出し、船に撤退したのである。

 この元均が出撃しないままの敗北に都元帥・権慄は激怒した。固城に元均を呼び出すと激しく叱責し、杖罰に処したという。

 

 7月14日、追い詰められた元均は170艘を率いて閑山島を出撃した。朝鮮水軍は全軍で釜山の日本軍を奇襲したのである。しかし釜山の日本軍は水陸とも厳重に守られていて、朝鮮水軍の攻撃も歯が立たず、またしても元均は敗走したのであった。

 元均は巨勢島まで逃げて、兵を休ませようとした。しかし巨勢島の北部は既に日本軍が占領していたのである。止むを得ず、元均は更に逃亡して、巨勢島と漆川島との狭い海峡である漆川梁に船を停泊させて、漸く休息をとることが出来た。

 

 日本軍は周辺に偵察船を出し、朝鮮水軍の動きを探っていた。すると、朝鮮水軍が漆川梁で休息しているとの情報を受けたのである。

 7月15日夜、藤堂、脇坂、加藤軍は静かに漆川梁に進撃した。先鋒の藤堂軍は、さすがに朝鮮水軍も偵察や見張りはいるだろうと慎重に進んだのである。ところが、朝鮮水軍は疲れ果てていて、藤堂軍の接近に全く気付いていなかった。これを見た高虎は、この機会を逃してはならないと判断し、先頭の堂新七を突撃させたのである。こうして、日本軍は次々と朝鮮水軍に襲い掛かり、船を奪っていったのである。追い詰められた朝鮮兵は船倉に逃げ込んだが、撫で切りにされたのであった。

 

 最後尾であった加藤軍が到着する頃には、日本軍の勝利は明白であった。この状況に嘉明は激怒し、敵の大船に向かって突撃していったのである。この後の嘉明の奮戦は後々まで語り草になった。

 

 元均は残余の船とともに巨勢島に上陸した。しかし、そこには島津軍3,000人が待ち伏せしていたのである。

 この戦いで、元均、李億祺、崔湖は戦死し、裴楔のみが逃走した。こうして朝鮮水軍は壊滅したのである。

 

 

参謀本部 編『日本戦史』朝鮮役 (経過表・附表附図),偕行社,大正13. 

国立国会図書館デジタルコレクション 

https://dl.ndl.go.jp/pid/936357 (参照 2024-02-06)