天海 (71)

 

 

 

 天海本多正信の屋敷を訪れていた。件の如く各種の陳情世間話である。正信にしても関東では新参者であり、周囲には権力者として警戒されている。天海のような事情通の存在は実にありがたいのだ。さらに天海は私利私欲がなく公平であるから、信頼できる存在である。行く行くは宗教政策のブレーンにしたいと考えていた。

 

 天海が席を立とうとした時、思い出したかの如く正信が言い出した。

 「天海殿は、与右衛門はご存じか。」

 (与右衛門、はて、誰のことか。)と考えていると、

 「これは申し訳ない、藤堂佐渡守のことである。」という。

 「あぁ、あの大きい奴ですか。」と天海が言うと、正信はフフッと笑い、

 「確かに大きいな。」と言った。

 

 藤堂高虎は、この時代にしては背が高い。6尺3寸(190cm)はあったらしいので、もはや巨人といってよい。

 「七兵衛(織田信澄)様が佐和山城主の折、何度かお目に掛りましたが、まだ駆け出しの頃で、とにかく手に負えない乱暴者でした。城下で喧嘩をして、相手を殺してしまい、近江を出奔したと聞いております。」と天海は言った。

 「やはりな、誰に聞いてもそう言うのだ。」と言うと正信は首を傾げ、

 「私が会った時は、温厚で、が据わっていて、大層理知的な人物であった。人間とはそれほど変われるものなのであろうか。」というと、

 「実はなぁ、聚楽第徳川屋敷を作った折に、出来上がった屋敷が図面とは違うことに気付いたのだ。そこでうちの殿さまが訝しんで、普請奉行を呼び寄せ、何故図面と違うのか詰問したのだ。」

 

 「なるほど、それが与右衛門だったわけですね。」と天海が言うと、正信は大きく頷き、

 「与右衛門殿が申すには、前の図面では警備上問題がある、というのだ。屋敷の警備上の欠陥を縷々と説明した後、自ら作成した図面を取り出し、どのように改築して、どのような成果が得られたかを力説し始めた。我が主、秀長のためにも屋敷の警備に穴があってはならない。新たに申請するのでは間に合わないので、独断で直したというのだ。」

 「相変わらず、無茶をする。」と天海は笑った。

 「改修の費用は自分で払ったという。もしお気に召さなければこの場でお手討ちください、というのだ。それで家臣総出で屋敷の点検をしたのだが、この男の言う通りであった。そこで殿さまは褒美を取らせて帰したのだ。それ以来、殿さまはこの男が気に入り、動向を探らせていた。」

 「さて私が知っている与右衛門はただの猪武者で、建築・築城の知識にはとんと縁のない男でした。」と天海も首を傾げる。

 

 「その与右衛門殿が秀長公御逝去ののちに太閤様からお招きがあったのだが、お断りして養子の秀保公に仕えたのだ。ところがこの度、秀保公が早世されたので高野山で出家したという訳なのだ。

才能を惜しんだ太閤様がわざわざ生駒様を高野山に派遣し説得させ、伊予国板島で7万石を授けたのだ。これをどう思う。」と正信は尋ねると、

 「よほど太閤様がお嫌いなのでしょうな。」と言って二人は笑った。

 

 藤堂佐渡守のことは風聞で知っていたが、あの与右衛門のこととは思いもよらなかった。世間とは思いのほか狭いものである。

 

藤堂高虎